【御朱印男子 17】誉田八幡宮

御朱印男子
誉田八幡宮

いつもただ 八幡さまに 初詣 青邨

いずれも様におかれましては、穏やかなる子歳の新年をお迎えのことと存じます。今年も、たま~~~にでよろしゅうございますので、拙ブログに一瞬でもお立ち寄りいただければ幸いでございます。どうぞ、よろしいお頼申します。

山口青邨(やまぐち せいそん、1892年5月10日 – 1988年12月15日)は、岩手県出身の俳人で鉱山学者。東京大学名誉教授。初号は泥邨。高浜虚子に師事し、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌『夏草』を主宰した人。66年間の句行で『雑草園』『雪国』『露團々』『花宰相』など13句集を刊行、収録数は合わせて1万句を超えると言うから、俳人なのか鉱山学者なのか、はたまた、工学者なのか、どれが正体ねんって人ですな。なんとも多才でうらやましい限りだ。

さて小生、毎年のことながら、元日には地元の田邊郷山阪神社紫金山小松院法楽寺にお参りし、二日には橿原神宮、三日に四天王寺もしくは、今まで初詣に訪れたことがないか、長らくご無沙汰な寺社へお参りに行く、という初詣パターン。

ということで、今年の正月三日は、出身高校と同じ羽曳野市内にある「誉田八幡宮」に参詣した。

こちら南側の「山門」には、鳥居が無い。かつての神宮寺「長野山護国寺」の面影が残る。そして誉田八幡と言えば、秋のだんじり。「西之口地車蔵」の文字に、秋祭りを理由に高校休んでた連中の顔を思い出す

【御朱印File 18】誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)

百舌鳥・古市古墳群」がつぶたんの奮闘の甲斐あって(笑)、昨年、世界遺産に登録されたことで、全国的に注目が集まる「古市古墳群」の中心的存在が「応神天皇陵」。この応神天皇陵に隣接するのが「誉田八幡宮」である。八幡宮では日本最古と言われる。

主祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと15代応神天皇)帯中日子命(たらしなかつひこのすめらみこと14代仲哀天皇)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと神功皇后)。応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の間の子、また応神天皇の子が仁徳天皇で、世界最大級の墳墓が応神天皇、仁徳天皇親子のものということから、このころに、この地方の王権が栄華を極めていたということだろう。また、応神天皇陵は、体積では国内最大で、仁徳天皇陵を上回る巨大な古墳で、古墳だらけのこのエリアにあっても、存在感抜群である。

この石橋「放生橋」の向こうが応神天皇陵。秋祭りには、神輿が応神陵へお渡りする(現在は新しい橋を渡る)

ちなみに仲哀天皇陵は、誉田八幡宮最寄り駅の近鉄南大阪線「古市」駅から3駅手前の「藤井寺」駅の徒歩圏内にある。以前、「御朱印男子」で紹介した葛井寺辛国神社とは目と鼻の先である。その南大阪線には、かつて藤井寺駅と土師ノ里駅の間に「応神御陵前(昭和20年6月1日営業休止、同49年7月20日廃止)という駅があり、道明寺駅と古市駅の間には「誉田八幡前」駅(応神御陵前と同日休止、廃止)もあった。どちらも廃駅跡を簡単に見つけ出すことができる。誉田八幡前駅なんて、古市駅から阿部野橋へ向かってわずか数十メートルだから、そりゃまあ、廃止されるだろうけど、応神御陵前駅は残しておいてもよかったんじゃないかな。これから利用客がどっと増えただろうに…。また復活させないか、近鉄さん!

全国的にもかなり珍しい、古墳のすぐそばに、その被葬者を祀る神社。旧社格は府社。任那の復興を目指した第29代欽明天皇が欽明天皇20年(559年)、応神天皇陵前に社殿を造営したことを社伝は創建としており、そこから「日本最古の八幡宮」とされている。永承6年(1051)、後冷泉天皇の行幸の際に、元の鎮座地から1町(約109m)ほど南の現在地に遷座。

八幡神が源氏の氏神とされることから、建久7年(1196)、源頼朝により、社殿が修復される。以降、源姓を名乗る歴代の征夷大将軍をはじめ、武家の信仰を集める。

頼朝は、この地に勃興した河内源氏、いわゆる「源氏三代」(頼信、頼義、義家)の子孫。その三代の菩提寺通法寺は誉田八幡宮に程近く、小生の通った高校からは徒歩圏内にある。頼義、義家が石清水八幡宮のご神体を分祀した壷井八幡宮に至っては、三大マラソンコースの一つ、宮さんコースの山場である。壷井八幡は、歌舞伎や文楽でよく劇中で名前が出てくるので、その都度、小生は「おお!」と思う(笑)。

で、何が言いたいかと言えば、そんな先祖の流れがあっての、源姓を名乗る武家が八幡神を氏神と崇めたのだろうな、ということである。長かったね、この結論に至るまでが(笑)。

南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪もめにより社殿・伽藍を焼失し荒廃してしまう。その後、河内国を支配する織田信長により、社領をすべて奪われた。後に、豊臣秀吉が社領200石を寄進し、社殿を再建。天正14年(1586)、社殿が焼失したため、豊臣秀頼片桐且元を普請奉行に任命し社殿再建を行うも、拝殿の建造中に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、建物の内部が未完成のままとなっていた。

その後、徳川家光が再建工事を行い、寛永年間初期に竣工したとされている。徳川家によって最後の仕上げが行われたため、三ツ葉葵の定紋が付けらている。そして八幡宮と言えば、鳩。お稲荷さんに狐、みたいなもんですな。見事な彫り物が施されている。

鳥居の扁額を見れば、「八幡宮」の八の字も鳩。八幡宮と鳩の関係を話し出すと、拙ブログ、1年かかってしまいそうなのでやめておくが…(笑)。みんな大好き「鳩サブレー」の商品名由来も、八幡宮と鳩との関係にあるってことは、知っておいて損はないよ(笑)。

鳥居から拝殿までは、きれいに整備された玉砂利の参道が続き、参拝客が進んでゆく

神宮寺の長野山護国寺は搭頭十五坊を誇っていたが(誉田八幡宮は社人十三家)、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。明治には幕末の剣客、桃井直正が宮司を務めた。

本来、十三重あったと推定される層塔の一部で、軸部とその上に載る四層の屋根型の笠部が今も境内に残る。素材は、柔らかくて加工がしやすい凝灰岩で、ここから程近い二上山で産出される
現存する南大門。ここだけ見ると、お寺のような感じがする

そこそこ広い境内。正月2日の午後、初詣客もそれなりに多いが、最寄りの古市駅から誉田八幡宮へ向かう人波はまったくない。静かなもんだ。まあ、近鉄南大阪線沿線の人間は、多くが橿原神宮へ詣でるので、どこもこんな感じだ。

拝殿前に並ぶ初詣客

拝殿は間口が11間、奥行き3間の木造入母屋本瓦葺き。割拝殿*の形式で、正面中央部分を拝所とし、向拝(ごはい)部分は唐破風造りで蛇腹天井になっている。また、拝殿には天井が張られていないので、木組みを観察できる…らしいが、観察していないので、よくわからない愚かなる初詣客がここに約一名(笑)。
*割拝殿:建物の中央に通路が設けられた形

拝殿前には「右近の橘」「左近の桜」が植えられている。

右近の橘
左近の桜

境内社・末社は、素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする當宗神社(まさむねじんじゃ)恵比寿社姫待稲荷社安産社がある。中でも誉田八幡宮が「安産にご利益あり」と言われる所以である安産社は有名。誉田八幡宮HPには、次のようにその由緒因縁故事来歴が紹介されている。

後冷泉天皇の永承六年のこと皇后が御懐妊されたとき、或る夜の夢に、南殿へ出られると、木の下に老翁が立っていてその姿はさながら鬼のごとくでした。
「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げると夢はさめ、そこで皇后はこの旨を天皇にお話になりました。
天皇の申されるには「木に鬼は即ち槐(エンジュ)の木である。むかし神功皇后が誉田別皇子を御出産になったとき、槐木をもって産殿の柱を造らせた故事がある。
これはきっと槐木をもって産屋を営むべしとの夢現であろう。はやく槐木の所在を尋ねるようにと勅命を出されると誉田八幡宮に槐木があることが判ったので、勅使を遣わされ境内の槐木の枝を伐りとり、これを産室の上に吊るして安産を祈念され、やがて皇子が御安産誕生された。
天皇は深く喜ばれ宸筆の額を納進せられた。
また、源頼朝の母公が尾張の熱田明神へ参詣し源家の主将に相応しい子をあたえ給えと祈念すると夢にこれらの神話によって知られるように、古来より当社の槐木は、「安産木」として、出産の際に災難を除き、安産の守護として、広く一般に親しまれてきました。

と、いうことを記して、写真を撮ってなかった言い訳にしておく(笑)。

こちらが當宗神社。式内社である。現在は素戔嗚命が祭神だが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「當宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようだ。當宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。旧地は、誉田八幡宮のすぐ近くにあるが、旧地を示すものは何もない。

こちらは恵比寿社。大阪の多くの恵比寿社は、1月10日の「十日えびす」がメーンとなるが、ここは1月9日が例祭。やはり福笹が授与される。

全体にシックな色彩の境内で、ひときわ目立つ鮮やかな朱塗りの鳥居が連なる姫待稲荷社。4月1日の例祭には、護摩奉納が執り行われるほか、甘酒も授与される。

南河内で馬の像を見ると「楠木正成が乗っているのか?」と思うが、馬上は無人である。この神馬は篤志家により寄進されたもの。誉田八幡宮には、『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪庁も見つかっている。また、応神天皇陪塚丸山古墳から出土した金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ=国宝)や、源頼朝が寄進した鳶松皮菱螺鈿鞍(つたまつかわびしらでんくら=重文)など国宝、重文の宝庫である。

9月15日の大祭で、応神天皇の神霊をお乗せして応神陵へお渡りする塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)も国宝。この神事は一度見てみたいね。

とまあ、数多くの宝物を蔵するこのお宮さんだが、やっぱりその頂点は、こちらさんであるのは言うまでもない。応神天皇陵、またの名を惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)。そう言えば、「恵我ノ荘」って駅が近くにるけど、この辺の関連性なんかさぐるのも面白そうやね。と、今になって、高校時代、何もしてなかった、ただ卒業アルバムでどっかのクラブにいたほうがよかろう、という理由だけで入った地歴部の血が騒ぐってもんよ(笑)。

<御朱印>

この日は、書置きの御朱印。やっぱ参拝客が多いと、なかなか御朱印にまで人を回せないってのがあるからな。逆に言うと、ちゃんと御朱印帳に押してもらいに行くだろうから、これはご縁をいただいと、神恩に感謝すべきというもんだろう。

<朱印>
上部:河内國
右行:惠我藻伏岡
中央部:譽田八幡宮
左行:陵南鎮座
<墨書>
右:奉拝
左:令和二年一月三日
・左上に「白羽の矢」をくわえた神鳩
・右下に「おうまやの跡」から出土した馬形埴輪庁

いつものことながら、色々と見落としているものが多すぎるのが、なんともはやではあるが、自宅から近鉄電車ですいすい行けるところなので、またお伺いする日が来るだろう。そのときには、本稿も更新していると思う(笑)。

境内を囲む白壁というのも、神社では珍しい。これも神宮寺の痕跡なのかもしれない。この写真を撮る時、フレームから外れてくれたガードマンさん、ありがとうございました!

<ところ>大阪府羽曳野市誉田3-2-8 <あし>近鉄南大阪線古市駅から徒歩10分

(令和2年1月3日参拝)


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