【六四32周年】岐路に立つ支連会

アイキャッチ画像:それぞれの「六四」。尖沙咀海旁道(Tsim Sha Tsui Promenade)で天安門事件犠牲者追悼の灯をともす市民。恒例のビクトリア公園での追悼集会がCOVID-19の感染拡大を受けて開催できない今年は、香港市民がそれぞれの形で追悼の灯をともしたが… (明報)>

天安門事件から32年が経過した。

本来、この時期の香港は1年で最も熱い「政治の季節」なのだが、一昨年の逃亡犯引き渡し条例に反対する「反送中」以降は年がら年中「政治の季節」になってしまった様相で、この時期のメーンテーマである天安門事件=「六四」に対する抗議の影がすっかり薄れてしまった。そこへ昨年の「国安法」である。いくら「50年不変」と言っても、50年もしないうちにそういう日が来るとは思っていたので、大して驚きもないのだが、一方的な中央の厳しい締め付けによってそうなるんだろうと予想していたら豈図らんや、香港市民の行動がその原因になろうとは…。もっとも、すべての香港市民に責任があるわけでなく、一部の扇動者とその「手足」になった連中のためなんだけど。おかげで、一昨年、昨年の「六四」なんて「光復香港、時代革命」にすっかり乗っ取られた感じさえした。

昨年の六四追悼集会で叫ばれたこのスローガンも、今では「国安法」違反 by “香港01”

「何を言ってるんだ!明らかに中国の弾圧だろうが!」と青筋立てる方もおいでかと思うが、例の「反送中」が事実上廃案になった時点で拳を下ろしておけば、こうはならなかっただろう。一向に拳を下ろさず、やがては破壊、火付け、交通インフラ妨害、集団リンチ、果ては殺人にまで騒動を拡大させた結果、昨年「香港版国家安全法=国安法」が施行されたのは周知のとおり。一連の暴力破壊行為は「どうぞ法律作って取り締まってください!」とアピールしているかのような酷いものだったわけで、弾圧でも何でもないだろう。あの無法ぶりを放置しておく国などないだろう。

そこへ今度はCOVID-19の感染拡大である。感染拡大防止策として香港政府は人が密状態になる集会を禁止した。これも時世柄、まあ当然の措置だろう。

今年は国安法がらみと感染拡大防止で、早い時点で毎年追悼集会が開かれているビクトリア公園のサッカーコートの使用が禁止され、集会の開催にOKが出されなかった。実は昨年も許可されなかったんだが、禁を破った支連会(香港市民支援愛国民主運動連合会)の幹部の皆さん方が、公園内に突入してしまう。支連会では当初「ネット上で自主的な追悼」をなんて呼びかけていたにもかかわらず、なんということでしょう…。ま、結果として皆さん方は、「不法集会」などの罪で拘留中なんだが…。

「ダメだ!」ってことやっちゃいけませんよ! 2020年6月5日付「明報」WEB版

昨年の6月4日はまだ国安法施行前だったからこういう無法もありだったかもしれないが、今年はそうはいかない。警察も1,000人動員体制で警戒に当たり、6月4日のビクトリア公園としては考えられない光景となった。

誰もいないビクトリア公園サッカーコート。6月4日にこの光景、信じられない… by “香港01”
公園の集会は禁止されても、公園の外ではそれぞれのスタイルで追悼のろうそくの灯をともした by “香港01”

さてその支連会。1986年5月21日、天安門広場に陣取る学生らの行動を支持しようと香港市民150万人が参加した「全球華人大遊行」で発足以来、今日まで香港における天安門事件抗議活動をリードしてきた。拙ブログでは毎年「六四」の度に、市民の支連会への支持度などを紹介してきたが、多少の変動はあっても一定の支持は得ており、活動については理解されているようではる。だが、国安法の施行により存亡の危機に瀕している。

「もうこれが最後か?」との思いが強かったため、祖国復帰前最後となった「六四」には5万5,000人が集まった by “香港01”

上の写真の日、1997年6月4日、小生もビクトリア公園にいた。あるワザを使って報道機関エリアに入って壇上や会場の写真を撮りまくった。記者みたいな顔して(笑)。そりゃもう「最後」という思いがあったからで、地元紙の記者たちとも「どうなるやろね~」なんて話もした。集会終了後は各紙の記者たちが記念に集合写真を撮っていたものだ。壇上に揃う司徒華をはじめとする支連会幹部たちの「釋放民運人士、平反八九民運、追究屠城責任、結束一黨專政、建設民主中國」という叫びに悲痛なものを感じたものだ。

ところがどっこい、悲観的な予想は裏切られ、翌年以降も中央からの妨害もなく「六四」はいつもように開催されたというのは、なんとも拍子抜けではあった。しかし、2000年代に入ってから、なんとなく雰囲気が変わってゆく。「なんだかなぁ~」感満載な「六四」になってゆくのである。若年層の参加を促進するためなのか、急に大学生劇団の前衛劇やバンド演奏が織り込まれてゆく。そんなのに魅力を感じて「六四」会場に足を運ぶ若者なんて、せいぜい役者とバンドのツレくらいだろう。

さらに「六四」でのシュプレヒコールは多様化してゆく。百歩譲って「全面普選全面普通選挙の実現」は良いとして、香港政府や中央政府への大小さまざまな不満をぶちまける場に急激に変遷してゆく。そのスピード感には恐れ入ったものだ。

四川大地震犠牲者哀悼と六四19周年記念として挙行された2008年の「六四デモ」。このころまでは、民主派デモと尖閣抗議などの反日デモは、ほぼ同じ顔ぶれが先頭に立っていた 2008年6月2日、銅鑼灣付近にて筆者撮影

上の写真は、小生が2008年6月2日に撮影した追悼集会の直前の日曜日に行われてきた「愛国民主大遊行」。この年は天安門事件の抗議と、5月に発生し、校舎の「おから工事」などによって多数の犠牲者を出した四川大地震の犠牲者への哀悼と救援募金活動が並列して行われた。被災者への支援は大事ではあるが、これを「六四」と並立させるところに支連会と世間、とりわけ若年層との感覚のズレを感じたものだ。「それはそれ、これはこれ」だ。また、デモの名称自体「愛国」というのはどうにもこうにも、って感じだ。

この「愛国行動」こそが若者の「六四離れ」「支連会離れ」を助長していることに、支連会はもっともっと早く気付くべきだった。それは寸劇上演やバンド演奏でなんとかなる話ではないはず。さらに、「汎民主派は頼りにならないから自分らがやる!」という若者の「民主派離れ」が2014年の雨傘行動以降、急速に進む。実際、当てにならないし何も香港に足跡を残せていない。雨傘行動は「伝統的民主派」へ“No”を突き付ける行動でもあったのだ。民主派の残した足跡を敢えて上げれば、騒乱とデモと分断と憎しみ合いの構図を残したということだろう。

2012年は史上最高人数18万人(主催者発表)が参加した。あそこ、どう考えても2万人くらいで満杯だと思うけど…
2014年の「六四」で献花する學聯代表。これ以降、學聯による献花は行われていない。よく見れば「代表」はさっさと国外逃亡した羅冠聰(ネイサン・ロー)ではないか! ※學聯=各大学学生会の連合組織で雨傘行動では当初は中心的な組織であった

特に若年層が指摘するのは、支連会のスローガンに「建設民主中國」があること。多くの若者に言わせれば「中国の民主化よりも香港の民主化を!」ということだ。雨傘を契機に香港独立を訴える「港獨派」や香港第一主義の「本土派」、香港のことは香港人で決めるとする「自決派」など既存の民主派とは一線を画す、若者主体の政治団体が勢いを増す。こうした団体や人士は「六四」追悼集会にも参加していない。「建設民主中國」がネックになっているのが理由の一つだ。彼らに共通するのは猛烈なまでの「反共、反中」姿勢である。極端な言い方をすれば一国両制度の全面的な否定である。支連会を含めた伝統的民主派との大きな違いはこの点だ。今後も彼らが支連会と交わることはないだろう。となると、迷走を続ける支連会はどうなるのか…。

支連会の迷走ぶりは、創設者の華叔こと司徒華の死去(2011年1月2日逝去)で一層強まってゆく (写真は2007年の追悼集会にて by “香港01”)

そんな支連会をめぐる最近の動きをまとめてみた。

5月24日付の香港各紙は、香港中律協創會陳曼琪会長の発言を取り上げている。「支連会の5大綱領の1つ『結束一黨專政一党独裁の終結』が国安法違反の可能性がある」というもので、「仮にビクトリア公園での追悼集会が警察から許可されなかった場合、集会に参加したりネットでの参加呼びかけなどは違法に当たる」と説明した。

27日には、追悼集会に先立って行われる天安門事件抗議デモと6月4日の「六四追悼集会」に対して、香港警察は「預防及控制疾病規例=5人以上集まるのを禁止する規定に基づき」デモ行進の反対と集会を禁止するとの通知書を支連会に示した。また政務長官弁公室からは「計画されているデモ行進と集会は『5人以上集まるのを禁止する規定』の条件に適合しない」との回答を受け取った。支連会は直ちに公衆集会及遊行上訴委員会に上訴したが後日、棄却された。支連会では鄒幸彤(トニー・チョウ)副主席が「市民は自発的にキャンドルを灯してほしい」とSNSから呼びかけた。ちなみに「トニー」と名乗るが女子である。また「預防及控制疾病規例」はCOVID-19の感染拡大防止のための規定。

32年間の追悼集会参加者数推移 橙色は支連会発表、水色は警察発表 図案作成 『端傳媒』

こうしてデモも追悼集会も開催できないことが決定した中、支連会は展示物入れ替えのため一時閉館していた「六四紀念館」を5月30日、再開した。企画展示として「1989年の民主化運動と香港」の写真展を開催。一方で「反送中」デモに関する展示品はなし。支連会の蔡耀昌氏は「反送中は支連会の中核的仕事ではないから」とコメント。政治的圧力を否定。まあ、圧力は無かったが、色々煩わしいことになるのを避けたというところだろう。攻めの支連会も国安法を前にすると、守りに転じざるを得ないってところか。

六四紀念館

ところが…。一寸先は闇である。支連会は6月2日、再オープンしたばかりの「六四紀念館」の暫定的な閉館を発表した。「六四紀念館」は食物環境衛生署の調査を受け、「公眾娛樂場所條例」によるライセンスを取得していないことが分かった。これを受けて支連会では同館の暫定的閉館を決定し、再開予定については別途通知とのことだが、はてさて再開は叶うのかどうか…。ちなみに再オープンから3日間で約550人が訪れたとのこと。

6月4日当日には、支連会の鄒幸彤副主席と男性1人が逮捕された。鄒副主席と男性は「無許可の集結を宣伝または発表した罪」の容疑により逮捕された。鄒副主席の弁護士によれば、5月29日未明に個人のフェースブックへの投稿文が逮捕の主な理由。問題とされる投稿では、鄒副主席が個人名義で6月4日午後8時にビクトリア公園でろうそくを灯すと表明。「すべての香港人には自主的な行動能力がある。正式に組織できなくても、水のように自発的に行動する」と強調していた。「水のように」「水になれ」とは、一昨年の騒動での「黒衛兵」たちの合言葉である。いやはや物騒なことだ。支連会がこれでは「六四」の継続も難しくなってくるのではないか。

逮捕された支連会の鄒幸彤(トニー・チョウ)副主席

支連会では春ごろより退会者も続出している。自身の身の安全を考えてのことなので、会としても慰留することもできない。6月に入ってからも穏健派民主派政党「民協」が、脱退を表明した。民主派御用媒体の『蘋果日報』の幹部が続々と身柄を拘束されたことも影響しているかもしれない。恐らく、そう遠くない将来には支連会のメンバーは数名程度にまで減るのではと思う。そこまでになると、もはや「死に体」であり、組織として成り立たないだろう。

こうした動きに対して、世間は支連会をどう見ているか。香港民意研究計劃では5月17日~21日、電話訪問方式で1,004人の香港市民に「六四世論調査」を行った。

図案作成『明報』

緑の折れ線は中央政府による「天安門事件再評価」支持率。46.9%の回答者が「支持」とするも、50%を割った。2004年以降最低。赤い折れ線の「支連会は解散すべき」が28%で1993年に調査を開始して以来最高となった。「平反六四」については毎年数値が動くので、今年の結果だけを見て判断するのは難しいが、支連会の影響力に関しては徐々に低下していると言えるだろう。「支連会解散」についても、少しずつではあるが上がっていっていることからもその流れがわかる。グラフには無いが「継続すべき」も38%で1998年以降で最低となった。

まあ、支連会のコントロールの下、やれデモ行進だ、やれ追悼集会だと動員かけられて集まる時代ではなくなってきたということだろう。それは「国安法」の影響と言うよりも、香港自体がそういう時代になったということだろう。

支連会が動いてしまうと、国安法違反で市民に逮捕者を出してしまいかねない。となると、これからは支連会に関係なく、個々人がそれぞれの形で6月4日を「母忘六四(6月4日を忘れるな)」として過ごすことになってゆきそうだ。去年~今年は香港で続いてきた「六四」の大きな転換期として記憶しておきたい。

1989年5月28日、150万人が「全球華人大遊行」に参加した。もうこういう日は来ないね、多分… 支連会資料

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