【平成の終わりに】

言うてますうちに、陛下の譲位、皇太子殿下の天皇御即位が、今日、明日の話となった。

もはや、あらゆるメディアが「平成の総括」をそれぞれの切り口で特集しており、小生如き一介の愚民があれやこれや申すこともないのではあるが、そこはそれ、愚民には愚民なりの平成があったわけで、一応、メディアに便乗して、ということで、この元号の終わりに、少しだけ小生の「平成物語」なんぞを…。

と言うてもや…。平成の31年間のほぼ半分を、香港で生きていた小生には、「昭和」ほどの熱い思い入れもなく、大した思い出もないのだがね。

しかしまあ、なんですな、「平成物語」なんて改めて文字にすると「平家物語」に見えるね、なんて今頃おまはんは、何を言うとるかというところだが(笑)。

小生の平成の始まりと言うよりも、昭和の終わりは、早朝の電話の音から始まった。

当時、小生は大阪のとある新聞社で広告営業の丁稚奉公をしていた。すでに先帝の容体に何らかの「兆し」があって、3か月以上経過していたか…。いわゆる「予定稿」はかなり早い時点で出来上がっており、編集紙面は着々と来るべき時に備えていたが、広告はそうはいかない。たとえばどこかの百貨店が「これ、その時に掲載してください」なんて予定稿を媒体に預けるなんてこともない。そんなんは、あの時代なら「西武ライオンズ優勝セール」くらいだ。そもそも、誰も「崩御」という事態を経験していない。広告部門で準備できることは、その時が来たら、広告紙面をどのように埋めるか? 段数はいかほど確保しておけばいいか? お悔み広告、追悼広告はどう対応するか? くらいのハナシだ。

小生なんぞは呑気なもんで、年末の仕事納めの夜から、大晦日までスキーに出かけていたくらいで、丁稚にはほとんど何もすることはないのが実情。紙面割なんぞは編集、広告、販売の偉い人同士で勝手にやって、丁稚はそこで決まった通りに事が運ぶように動くだけである。

一応、晴れやかと言うほどでもない、妙な空気の新年が明け、最初の土曜の朝。そう、昭和63年1月7日の朝、広告部門のデスクから自宅に電話が入り、いよいよその時が来たことを知る。小生は割と落ち着いていたのだが、昭和10年代生まれの両親が、やけに盛り上がっていて「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」とワーワーと言う。「呑気に朝メシ食うとらんと、さっさと新聞社へ行け!」と言うが、こっちには朝のルーティンがあるわけで、そこは休日出勤であっても、ちゃんとしましょ、というところだ。

こうして、小生の昭和は終わり、平成が始まった。小生、25歳のことであった。そんな丁稚も、今年の7月には56歳になるのだから、31年という年月の重さと残酷さを感じずにはおれない…。何が残酷ってアナタ、フサフサ&サラサラだった頭髪は、ほぼ白髪になり、「黒くなるリンス」で隠している始末(笑)。さらに分量もかなり減り、力づくでふわっとさせるという事態(笑)。顔もシミだらけになり、アイドル風情を気取っていたあの頃の面影なんぞ、微塵もない。病院だって、脳神経外科に耳鼻科に整形外科、放射線科、時に泌尿器科と色々と身体の中にも「お友達」が増えてしまった(笑)。

敢えて言えば、当時購入したヴィンテージもののジーンズが、今もジャストサイズで穿けるという体型の維持くらいが、我ながら大したもんだと思う。ま、これはセブンスターさんのお蔭かもしれない。我がよき友よ、セブンスター! あの頃は220円だったのにね、アナタ…。500円とはどういう了見でござんすか? ちなみに、平成10年250円、15年280円、18年300円、22年440円、26年度に460円! でもやめられない…。思えば高校生からのお付き合い…(笑)。

さて、その後、日本は大阪の花博あたりまでは、まさにバブル景気絶頂期を謳歌し、奉公先も儲かっていた。しかし、バブルはまさしくバブル。ダメになったら急降下だ。大体、これは大学生時代から感じていたのだが、「で、俺って、一体いくらの商品価値、値段なのよ?」という思いが、このころ一層強まるのであった。終身雇用というある種「神話」が、崩壊し始めた時期でもあったので、余計にその思いが強まったのかもしれない。

香港へ移ったのは平成7年だが、すでにバブル真っ只中の平成元年から、「香港、台湾、上海、バンコク」あたりへの転身を模索し始めていたのところ、香港映画好きだったこともあって、その「候補地」の中で最初に訪れた香港が、すごく水が合うとピピっと感じたのだった。「頃合い」を見ながら、そして少し時間もかかり、その間、転身計画もこれで頓挫かなと思うようなことが、身の上にもあったりで、時間を要してしまったが、香港へ移る日を迎えたという次第だ。

そして香港の新しい奉公先、これまた紙媒体で、初めて小生に「適正価格」「値札」が付く。結構、シビアで「え?」と思うも、そこは自分で選んだ道なので、文句はない。そのかわり、売上に応じて「コミッション」が付加される。当時の香港は、返還前の好景気。コミッションは、常に「正札」の倍以上になり、ささやかながら「わが世の春」を感じたものである。が、世の中、甘くはない。

香港返還の1997年、すなわち平成9年7月1日、タイのバーツ急落に端を発した「アジア金融危機」は、返還バブルの香港にも容赦なく襲い掛かり、香港の奉公先でも、未払い未回収があれよのうちに溜まってゆく。実に、日本と香港で「バブル崩壊」を経験したわけである。これは幸運と言うべきか不幸と言うべきか…。で、奉公先がギブアップ宣言しないうちに、小生はお暇をいただき、雲南省放浪の旅に出た。平成10年7月のことである。

その後、紆余曲折があったが、またもや香港の紙媒体で新しい奉公が始まる。平成12年のことである。ここでは、丁稚から一ランク上がって、まずは手代、そのうちに大番頭と出世コースを歩むことになる。まあ、言いましても、10人もいない所帯。「並みいるライバルを蹴落として」ということでなく、小生しかいないからという理由なんだが、悪い気はしない。

そんな折、平成15年、香港をSARS(重症急性呼吸器症候群)の悪夢が襲う。売り上げは瞬く間にほぼゼロとなるも、知恵を振り絞って、あれこれと広告をかき集めていた。さらに追い打ちをかけるように、我が身に一大事が起きる。決して、SARSに罹ったわけじゃない。

耳鳴りがひどかった。人の声がヘリウムガスを吸った人とか、すりガラス越しに夫のDVを訴える人の声のように聴こえる。聴力測定のデータを見た耳鼻科のセンセは「その足で今すぐCTを撮って来い」と言う。数日後、下った診断は「神経線維腫症2型」による「両側聴神経鞘腫」だった。要するに、「両側の聴神経を覆う鞘に脳腫瘍できてまっせ」ということだ。いやはや、まったく…。

「神経線維腫症2型」は、数万人に一人の染色体異常に起因する病気で、今後は聴力消失をはじめ、全身の神経に腫瘍ができ続けて、その都度、関連する機能に障害が残る。現に、3年前には腕にも新たな腫瘍が発見された。もちろん、国の特定疾患=難病指定でもある。良性腫瘍だから、腫瘍そのものが原因で死ぬことはないが、特効薬もない。あくまで対症療法だ。

「ああ、人生終わったか」と思うも、今も生きているから不思議だ。そして仕事もしているからさらに不思議だ。もちろん、耳は相当遠くなってしまったが、普通に生活するにはさほど不自由のない程度にとどまっている。ただ、聴神経に隣接する三叉神経に腫瘍が接触しているため、顔面に雷が100万発くらい落ちたかのよう電撃ショック痛が起きる。これを抑えるため、抗てんかん薬を服用するのだが、かなり副作用がきつく、めまい、ふらつき、眠気、複視などが起きることが頻繁である。痛みと引き換えとは言え、かなり辛い。何より、危ない。何度、家の階段で2階から転げ落ちたか…。

そんなこんなで、平成20年には奉公先の本丸が、海外の出店を全部撤収するということで、プー太郎になり、自分で商いも始めたが、このころから薬の副作用も、より強くなってきたこともあり、平成21年末に、ついに住み慣れた香港を去ることになり、今に至っているという次第だ。

結局、平成だからどうこうではなく、人の人生なんてこんなもんなんだろうと思うことが、あまりにも多くあった30年と4か月だった。

そして令和。始まりと終わりを見届けた平成と同じように、また、始まりと終わりを見届けることができるのか…。小生の身体次第だと思うが、平成の30年間の医学の進歩はiPS細胞に代表されるように、色んな「不可能」が「可能」になっている。この病気にフィットする発明がないとも限らない。ま、期待せず、絶望もせず、という感じかな。

長々、お付き合いいただきましたが、当然、もっともっと色々あったわけで、30年を振り返るなんて大変な話だなと、思った次第。

いずれにしろ、新しい御代が始まる。国の安寧と皇室の弥栄を祈念するばかりである。そして、小生の難病が大人しくしてくれていることも…。


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