【地歴部】上町台地散策<玉造編>

大阪で生まれ育って50年が過ぎた。
うち15年を異国で過ごしたものの、大阪に対する愛は藍より深く、

「大阪の事ならなんでも聞いて!」

と胸を張りたいところだが、まさに灯台下暗しで、生まれ育った地域の事くらいしか実はよくわかっていない。そこで、大阪の歴史の礎とも言える「上町台地」を、暇を見つけてウロウロしてみようかと思い立つ。「玉造編」などと大仰に謳ってはいるけれど、さて、今後「上町台地散策」なるエントリが、拙ブログに頻繁に登場するかどうかは、書き手ですらわからない…。まあ、そんな程度です(笑)。

今回、玉造を選んだのは、玉造稲荷神社で、興味ある催しが開催されたから。

IMG_0782.jpgblog「秋田實<あきたみのる>」と聞いて、「はいはい、秋田センセな」とか「漫才作家のセンセな」とかわかるのは、多分、小生の年代が最終年代ではないかと思う。さらに言えば、幼い頃から演芸好きで、花月だの角座だのと寄席小屋へ、物心ついた時分から通っていた小生だから知っているのかもしれず、そうなると、この日会場を埋めた約80人の聴講者の平均年齢も大方予測がつくだろう。そう、小生が恐らく「一番の若手」だったかもしれない…。

IMG_0780.jpgblog玉造界隈で生まれた漫才作家・秋田實を偲ぶ「秋田實笑魂碑」。「笑いを大切に。怒ってよくなるものは 猫の背中の曲線だけ」。ホンマ、そうでっせ!(と、自分に言い聞かせる人少なからずと思ふ。アタシも同じくw)。

昭和52年10月、秋田センセ逝去に際し、演芸評論家の吉田留三郎氏を中心にミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケら、「秋田門下」ともいうべき上方漫才師の間で「秋田センセの記念碑を・・・」という機運が盛り上がり、秋田實が幼少期を過ごした玉造の地、玉造稲荷神社に建てられし石碑。

傍の自然石には、センセの辞世の句「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」が。深いなぁ…。

講演の講師には秋田センセの長女で、童話作家として活躍している藤田富美恵さんと、神社宮司。聞き手には演芸ジャーナリスト(と呼ぶのかな?)の、やまだりよこ氏。

秋田センセの生涯をたどりながら、その都度の父たる林廣次(秋田センセの本名)あるいは漫才作家としての父の思い出を、藤田さんが語るという内容で、恐らくは多くをかつて藤田さんの著書『父の背中』で読んだと記憶するが、さあ、その『父の背中』が我が家では所在不明で、これは相当気合を入れた発掘作業をせねばならないので、「読んだはず」ということにしておく(笑)。

藤田さんは現在、秋田センセが遺した原稿や資料などを整理研究し、伝え残す作業をしておられると言い、その中で新たに見つかった原稿などが、講演会と同時に展示もされていた。いずれ著書となって世に出ると思うけど、これはもう演芸マニア垂涎の本になるのは間違いなし。

話の中で「う~ん、そやな~」と感じたのは、

「タイトルのある漫才」(たとえば、エンタツ・アチャコの『早慶戦』や、いとし・こいしの『ジンギスカン』など)や「筋のある漫才」はすでに消滅しているんではないか…。これは時代の流れ生活様式の変化があって、仕方ないことではあるし、漫才とはそうやって時代を反映するもの。

秋田作品を演じれる漫才コンビ(トリオ)は、今の時代にはいないだろう→「力量が無い」

「力量が無い」と断言した藤田さんに、大いに賛成!

小生は基本的に「俺、お前」で呼び合う漫才は好きではないので、いとこいさんらみたいに「キミ、ボク」で呼び合ってほしい派。いまの漫才さんにそんなコンビなし。あれはアカンわ。元来、上方ことばってもっときれいなものやし、ヘンな「関西弁(そんな“”は実在しない)」を全国にまき散らしてほしくはないねん…。

いろいろ興味深い話の連続だったけど、例によって、講演会などの類は、会場を出るとほとんど内容を忘れ去ってしまう方なので、詳しく知りたい人はきっと詳しく書いてるブログとかあると思うので、そういうのん探して下さいな(笑)

で、上町台地。
ご多聞に漏れず坂道が多いし、階段も多いこのあたり。ここのお稲荷さんもしかり。

IMG_0787.jpgblog「玉作岡」。『日本書紀』巻第15にも記されている。
参照:http://www.inari.or.jp/shamusho/s-naniwa.html

そんなわけで玉造稲荷神社境内には、古代の玉類を収蔵する「難波・玉造資料館」もある。(見学は予約制)

IMG_0784.jpgblog「社殿」。玉造稲荷神社の創祀は垂仁天皇18年(紀元前12年)。ご祭神は、主神に宇迦之御魂大神。相殿には、下照姫命、稚日女命、月読命、軻遇突智命。

IMG_0775.jpgblog伊勢参りが流行した江戸期。大坂の玉造が拠点の唐弓弦師・松屋甚四郎と、その手代・源助は、行商の経験を生かした「旅の情報システム」と言うべき「浪花組」(のちに「浪花講」)を立ち上げる。

「浪花講」の看板を軒先に掲げることで、不良旅籠屋等と見分けがつくようにしたり、旅行ガイドブック『浪花講定宿帳』等を発行、旅人が安心して宿をとれる仕組みを開発した。伊勢参りの出発地だった当時の玉造は、大坂以西の伊勢参り出発地で、旅人、見送り人でたいへん賑わっていたという。旅人が、道中の安全を玉造稲荷神社で祈願する様子は、初代・長谷川貞信の錦絵にも描かれている。ここから、落語の『東の旅』の世界がスタートしたというわけ。

IMG_0779.jpgblog「豊臣秀頼公奉納鳥居」。慶長8年(1603)、秀頼公より奉納されし鳥居で400年の歴史を刻む。大阪の石製鳥居としては、四天王寺正門の鳥居と共に古いといわれている。なぜに上の部分だけか、と言うと。大坂夏の陣、大阪大空襲という戦禍を乗り越えたものの、阪神・淡路大震災で基礎部分に損傷が生じたため、この形で現在は保存されている次第。

IMG_0786.jpgblog元禄時代、玉造稲荷神社に観音堂があり大坂三十三所観音の第十番札所だったという。『曾根崎心中』の「観音廻り」(通常は上演されない)にもこの玉造稲荷にあった観音堂が登場する。その一節が刻まれた文学碑が境内正面石段脇に。なお『緋縮緬卯月の紅葉』についての知識は、小生、持ち得ない…。勉強不足ですね(泣)。

IMG_0788.jpgblog神社手前の道路のど真ん中に、白蛇、大阪で言ういわゆる「みぃさん」が祀られたこんもりした祠あり。どう言う曰く因縁でここにおはしますかは知らねども、玉造稲荷社同様に坂の上から街を見守っている。

IMG_0789.jpgblog環状線玉造駅近くの「日の出通り商店街」。秋田センセ幼かりしころは大変な賑わいようで、「三光館」など寄席小屋も多数あったと言うが、いまではご覧の通り「シャッター通り」に。日曜の午後と言うのに、これは寂しい限り。往時の繁栄ぶりは、藤田さんの著書『玉造日の出通り三光館』に詳しい。

とまあ、こんな感じでボチボチやっていきますか、「上町台地散策」…。ちょっと寒くなるからなぁ(笑)。

(平成25年師走8日 聴講と散策)

全くの余談ながら。
小生が右も左もわからぬ新人営業だったころ。取引先のカウンターパーソンだった秋田センセの御子息(この日の藤田富美恵さんの弟さん)に、大変お世話になった。相当、無理もお願いしたし、その無理もほとんど聞いてもらえた。感謝しています。


3件のコメント

  1. 小生儀、馬齢を虚しく重ね還暦を前にして初めて大阪を訪れたのがこの10月の事、何やら知らねど心騒ぐ滞在でありました。端的に言えば、惚れた、ということになるかと。大阪、実に好ましき風水と人柄の土地であります。願わくば近き将来再訪せむ~♪
    あなかしこ。

    1. Masato Murata さん
      コメントありがとうございます。
      ぜひまたご来阪ください。
      そして、メディアが伝える大阪とは、一味も二味も違う、「真の大阪」をご堪能下さい。

コメントを残す