【杉本文楽】「曾根崎心中 付り観音廻り」を観て

人形浄瑠璃文楽
杉本文楽「曾根崎心中 付り観音廻り」

本来なら、「文楽」を観たんだから、タイトルもいつも通り「【上方芸能な日々 文楽】杉本文楽 曾根崎心中」とすべきなんだろうけど、さてさて、これを果たして「上方芸能の文楽」と言ってしまっていいのかどうか、という逡巡があり、今回は上方芸能の範疇からはずすことにした…。

「杉本文楽 曾根崎心中 付り観音廻り(そねざきしんじゅう つけたりかんのんめぐり)」は、構成・演出・美術などを手がける現代美術作家、杉本博司氏が、かの近松門左衛門が実際の心中事件を元に描いた醤油屋手代・徳兵衛と遊女・お初の物語を、近松の原文に忠実に舞台化 し、日本の伝統芸能と現代アートを融合させた新演出の文楽。冒頭には、お初の「観音廻り」の場面を復活させるなど独自の解釈を加えたもの。

「曾根崎心中」は、元禄16年(1703)5月7日、大坂道頓堀の筑後芝居(竹本座)で初演され、空前の大ヒットとなるも、心中事件の多発という社会的影響を生み出したため、享保8年(1723)、幕府は上演を禁止。以後上演が途絶えてしまう。

昭和28年、歌舞伎でこれを復活上演し大ヒット。文楽でも上演禁止から232年後の昭和30年、復曲しこれまた大ヒット。しかし、230年を超える時間で失われたものはあまりにも多大であり、このときの「復刻」は極端な言い方をすれば、野澤松之輔作詞・作曲による「戦後生まれの新作」なのである。

今回の「杉本文楽 曾根崎心中」は、近松の原文での上演を308年ぶりに甦らせてのものになる。その点は非常に興味深いし、意義あることだとは思う。思うのだけど…。

一言で片づけると、

「あまりにもコストパフォーマンスの悪い芝居見物」

だった、と。

芸能鑑賞を「コストパフォーマンス」という物差しで評価してしまうと、何某の市長と同じ手合いに陥ってしまうんだけど、その批判を恐れずに言うと、そういうことだ。

9000円である。いやまあ、フェスティバルホールだから、9000円なんて珍しくもない金額だし、歌舞伎に較べれば、9000円の芝居見物なんて実にお安い料金設定ではあるんだけど…。

じゃ、絶対にフェスという空間が必要だったんだろうか? なんて思ってしまうんだな、これが…。

なんで文楽劇場ではアカンのか? そこの説得力が感じられないのであった。

フェスは世界に誇る素晴らしいホール。でも、あの空間での浄瑠璃は、はっきり言って不似合い。せっかくの「原文に忠実な」浄瑠璃が、単なる「音楽」に陥ってしまっていて、しみじみと味わうなんてのは、無理でした。そりゃ、アタシが耳が遠いからだと言われたら、返す言葉もありませんが、どうしても詞章を味わいながら人形を観るという「文楽」本来の見物方法が、ホールの巨大さに阻害されてしまった感が拭えませんでしたな。

で、こうなると、せっかく照明やビジュアルなどを駆使した現代アートの斬新な演出にも、いまひとつ気持ちを投入することができなくなる…。「文楽は浄瑠璃」ということを、痛感したひとときでもあったわけです。まあ、感じ方は人それぞれでしょうけどね…。

舞台前面に「手摺」が無く、人形遣いさんの全身が見えてしまっているのも、かなり勝手が悪かった。そうなると、人形が空中浮遊しているみたいで、要するに「足元がおぼつかない」状態になる。人形遣いは主遣い、左遣い、足遣いの3人とも黒衣・頭巾で姿を暗い舞台に同化させて人形にスポットが当たるような工夫が施されていたというわけだろうけど、あれは厳しかったな、観ていて…。「いや、そこが狙いなんですョ!」なんて言われると、これまた「はぁ、そうですかぁ、えらいすんません」とスゴスゴと引き下がるしかないねんけどな(笑)。

全てにおいて場が暗くて「床本」を見て詞章を確かめることもできないから、なんかすごい「置いてけぼり感」いっぱいだったな…。「曾根崎の初演当時、蝋燭の炎しか照明が無かった時代の小屋の雰囲気も再現したい」という意図もあったらしいけど、それなら小屋の規模、フェスではあまりにも大き過ぎんかえ?

これ、いっぺん冒頭の「観音廻り」から通しで素浄瑠璃で聴いてはみたいなぁ…。その上で、もう一度観てみたい気はするけれど…。いや、もうイイか…。

かなり昔、亡き文吾師匠が宇崎竜童と「ロック曾根崎心中」を演って、「最初は批判が多かったけど、今は悪ぅ言う人だれもおれへん」と言うてはったけど、それとはまた違うんだな、恐らく…。

とりあえず、何某の市長は、この演目がたいそうお気に入りだと言うことらしいから、そういう層向けにたまには見せてあげればいいんじゃないかな、この手の「チャレンジ作」を…。一連の補助金騒動の冒頭から、やたら「杉本文楽ぅ~、杉本文楽ぅ~」って、まさしく「アホの一つ覚え」で、何かあったら引きあいに出してはったもん、あの人。「それしか知らんねんやろ、キミ!」みたいなね(笑)。そこまで気に入ってるんやったら、代わりにこのブログ書いて欲しいわ、マジで(笑)。

結局、今、本公演などで上演されているあの形が、一番観やすくて聴きやすいんだということを、自分の中ではっきりと確信できた今回の見物だったし、一方で、「一人遣い」の人形芝居というのがどういうものだったかというのも、「観音廻り」のお初さんでなんとなく認識できた、という収穫もあったわけで。「ほな、それでエエやんか、ごじゃごじゃ言いないな」と言われるかもしれんけどね、そういうん差し引いても、やっぱりコスパ、悪かったな…(笑)。

と、あれこれ文句を並べてはみたけど、原文に忠実な詞章の掘り起こし作業、曲付け、それを舞台に掛けるためのお稽古、照明やビジュアルなどの舞台設定、演出などなど、意欲だの心意気だのは、こりゃもう拍手喝采の大仕事には違いないことだし、なんと言っても、この作品のパリ公演では、仏紙「ルモンド」が1面トップで大絶賛の記事を掲載したことや、フェスが3日間「文楽公演」のご見物様で一杯になったのは、うれしい出来事でもありまする。

以下、無用のことながら。
そんな次第で、小生の数列後ろでは、何某の市長さんもSPいっぱい従えてご観劇。通路挟んで住大夫師匠もご観劇。上演前には住さんのとこへ何某くんは挨拶に行って、えらい握手してたけどね。お互いの心中や如何に? 終演後、両者退席で、住さんには拍手起きてたけど、何某くんにはなんか冷たい空気が漂ってましたな。オモロかったわ、あれ。

そして、アタシは住さんにこの芝居の率直な感想聞きたいわ…。聞かせて、住さん…。

(平成26年3月30日 フェスティバルホール)



 


1件のコメント

コメントを残す