【毒書の時間】『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』 織田作之助

<これまで多くの俳優が『夫婦善哉』で柳吉と蝶子を演じてきたが、森繁久彌淡島千景のコンビに勝るものはないと思う。また舞台では、石浜恒夫が脚色した文楽も、格別の味わいがある>


何度読んでも飽きない作品というのは小生の場合、ほとんどなく、よって「再読」ということもほとんどしない。たま~に「あれ、もう1回読んでみようかな」というのがあり、珍しく再読するんだが、初めて読んだ時のように心動かされることもなく、ざーっと眺めてみるというのがせいぜいである。そんな中、何度読んでも飽きることなく、読むたびに「ほー!」だの「へー!」だのと言ってしまうのが、黒岩重吾と今回読んだオダサクこと、織田作之助である。時々、こうやって作品集がポッと出る。今回は新潮文庫から。既読作品がずらっと並ぶが、今回も初読のように心動かされるのは、まことに不可思議。よほど波が合うんだような…。

『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』 織田作之助

新潮文庫 ¥693
令和六年四月一日発行
令和6年4月23日読了
※価格は令和6年4月23日時点税込

なんで今、オダサクの短編集が出たのかは知らないが、まあとにかく、書店で平積みされているのを見つけて「おお!」と喜んだ瞬間、手に取っていた(笑)。何が収録されているのかまったくチェックせずに即購入。帰りの電車の中で、目次を見れば既読作品が並んでいたが、「やめときゃよかった」などは寸分も思わない。再び、これらの作品群を読む機会をもらえて、ラッキー、というところだ。

表紙カバーの、戦前の道頓堀の絵がすごくいい! まさに「川面に浮かぶ、赤い灯、青い灯」である。大阪がまだ「大大阪」だった時代。

そして、この文体、このテンポ、一作当たりのこの分量が、小生にはピッタリはまる。今日びの大阪人はこんな大阪弁はほとんど使わないが、この大阪弁が懐かしい。子供の頃は普通に耳に入ってきた大阪弁。小生が言葉を覚え始めた時代は、まだまだオダサク作品の中の大阪弁が普通だった。大阪の芸能人がローカルではなく、全国の電波に乗るようになって、大阪弁は急速に標準語化し、「関西弁」なるテレビから生まれた「弁」になってしまった。

閑話休題(それはさておき)。

本書には表題の2作を含め、11作品が収録されている。

表題作『放浪』。岸和田の片田舎の兄弟二人の人生を描く。兄は天王寺公園で猫イラズ(作中ではカナ部分を伏字にしている)を服用して自殺。弟は叔母夫婦が営む繁盛する仕出し屋の婿養子になるが、逐電。転落の人生を送るが…。弟はきっと立ち直るだろうと、一筋の光明を感じさせる締め方に「ふむ!」となぜか頷いてしまう…。六円五十二銭の入った紙袋を川に落としてしまったにもかかわらず…。

もう一篇の表題作『雪の夜』。舞台は別府。先の『放浪』でも、別府を舞台にしたシーンがあるし、『続夫婦善哉』も舞台は別府である。解説には別府がよく出てくる背景が説明されている。この作品、主人公は悲惨な状況にある。人生のどん底と言ってもいいだろう。それでも、陰気臭く閉まった雨戸の「隙間から明かりが洩れて、屋根の雪を照らしていた」という一文に、『放浪』と同じような感覚になる。

決して、最後にどん底に突き落とすようなことをしない終わり方に、人への優しを感じる。

寺田屋事件の寺田屋の嫁、登勢の物語。その中にかの事件を取り込み、歴史的事件や関わりある人物との交わりを描く『』。吃音でとにかく病的な潔癖症の夫、伊助。年齢を重ね、この伊助が素人浄瑠璃を習い始めるあたりから、物語に躍動感が出たよう感じる。文楽好きなオダサクは、様々な浄瑠璃作品を盛り込みながら、この物語を進める一幕もあり、文楽好きの小生もこの辺りはノリノリで読み進める。ちなみに、本書には収録されていないが『文楽の人』『二流文楽論』は、文楽の好きな人はぜひとも一読してほしい。

この三篇が印象的だが、『馬地獄』『俗臭』『高野線』『神経』も非常に読み応えのある短編である。針中野まで行くには…、と言う間抜けな紀州訛りの寸借詐欺の『馬地獄』、これはもはや「落語」ですわな(笑)。小生の地元である針中野を詐欺に使うな!(笑)。

改めて、波が合う、ウマが合う作家であることを認識できた。「友達になりたい作家」ナンバーワンなのだ。が、仮に同時代に生きていたとしても、どうやったら友達になれたんでしょうね(笑)。よしんば、友達なってしまうと、相当面倒くさいおっさんなような気もするね(笑)。

思うに、文庫版のオダサク作品集では、これが最高のものかと思う。こういうのを出せるのは岩波だけだろうな。よって希少本となりつつあって、書店にはもう並んでいないので、電子書籍か古書店で探し当てるしかない。

 

 


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