【毒書の時間】『黛家の兄弟』 砂原浩太朗

<物語の発端は桜が満開の堤を行く17歳の武家の三男坊二人の会話。やがて政争の嵐に翻弄される二人だった photo AC>


時代小説を好むようになったのは、40歳を過ぎてからだろうか。「お前に何がわかる」と笑う人もいるかもしれないが、やはりそれなりに人生を歩んできたからこそ共感できるものが時代小説にはあるからだと思う。まあ、それを感じるのが40歳なのか30歳なのか、はたまた80歳なのかは人それぞれだとは思うけど。

巷には「文庫書下ろし」の時代小説があふれていて、これはこれでサクッと読めて筋書もわかりやすく、この時代にマッチしていると思う。小生がよく読んでいる「居眠り磐音シリーズ」などはその代表格だろう。一方で、時間をかけてでもたっぷりと味わいながら丁寧に読みたい時代小説もあるわけで、そういう作品を探していたところ、行き当たったのが砂原浩太朗の『高瀬庄左衛門御留書』である。これは本当に大当たりで、「こういうのが読みたかったのよ!」という作品だった。

その『高瀬庄左衛門御留書』と同じく、架空の藩「神山藩」が舞台のシリーズ第二弾『黛家の兄弟』は、昨年1月に発売となっていたが、今夏ようやく購入。毎晩、数ページずつゆっくりとページをめくっているうちに、秋のお彼岸となってしまった(笑)。

『黛家の兄弟』 砂原浩太朗

講談社 ¥1,980

【第35回山本周五郎賞受賞作】

まずは「神山藩シリーズ」とは何ぞやについて。

架空の藩「神山藩」を舞台とした砂原浩太朗の時代小説シリーズ。それぞれ主人公も年代も違うので続き物ではないが、統一された世界観で物語が紡がれる。<引用:「講談社BOOK倶楽部」

というわけで、本作も前作同様に架空の神山藩が舞台となっている。今作も非常に完成度が高く、読後感も心地よい端正な作品に仕上がっている。正統派の時代小説。帯のコピーに「政争の嵐の中、三兄弟の絆が試される」とあるが、まさにそのまんまんのストーリーだった。

主役は黛家の三兄弟。神山藩で代々筆頭家老の黛家一派の最大の政敵、次席家老漆原内記一派。三男の新三郎は、兄たちとは付かず離れず、道場仲間の圭蔵と穏やかな青春の日々を過ごしている。しかし人生の転機を迎え、大目付を務める黒沢家に婿入りし、政務を学び始めていた。そんな中、黛家の未来を揺るがす大事件が起こり、父清左衛門は漆原内記により駆逐されてしまう。そこに至る理不尽な顛末に、三兄弟は翻弄されていく。

清左衛門失脚の折に、内記が新三郎に言い放った「強い虫になられるがよい」という一言は、新三郎のその後の生き方に大きな影響を及ぼすことになる。

最後に漆原家失脚、黛家再起という形で成し遂げたかつての新三郎、黒沢織部正改め黛清左衛門と長兄。それは政争のさ中に理不尽な死を遂げた次兄壮十郎のための「仇討ち」でもあったのだろうか。終盤の一気呵成の展開の中での「黛家の兄弟だからでござる」。これがズシーンと心に響いた。前後半の間に、いきなり13年の歳月が流れるわけだが、その間に長兄と三男は政務以外では袂を分かっていたはずだが…。そこらへんに、ちょいとばかり「無理感」のある回収を感じたかな。

しかし、新三郎が黒沢家に婿入りしてからは、側近として仕えていた道場仲間の圭蔵、実は漆原と内通していたとはなぁ…。そりゃそうだ、嫉妬しないわけはないよな。可哀そうではある。

政敵漆原内記家の物語とみた場合どうか。漆原内記は台所事情の苦しい藩の財政を支えてきた実力者だったが、黛清左衛門と反対に、子供運はよくなかった。長男は愚連隊とつるんだがために、黛家三男の壮十郎に殺され、次男は父の内記にも父が重用する新三郎にも及ばぬと知り、新三郎殺害せんと企ててしまう。内記自身が子に恵まれなかったことを思い知る終盤は哀感が漂う。「子ということものは、ときに多くの苦しみを連れて来おる」。いつぞや、内記がぽろっとこぼしたこの一言が印象に残る。

前作『高瀬庄左衛門~』では、「選んだ以外の生き方があったとは思わぬことだ」「人などと申すは、しょせん生きているだけで誰かのさまたげとなるもの。されど、ときには助けとなることもできましょう」など、まるで小生の来し方を肯定してくれるかのような名言が散りばめられていたが、今作にはそういうのは無かったけど、やはり背筋を伸ばして読みたい空気感が400ページ余りの中に常に漂っていた。この作家の人気の所以の一つだろう。

処々に鶯や鳶、鷦鷯(みそさざい)、ほおじろなど鳥の鳴声が入り、季節の移ろいを感じさせる手法もよかった。ただし、小生は鶯以外、いつの季節の鳥なのかはさっぱり知りません(笑)。

第三作『霜月記』への期待も膨らむ。さっさと買って読むべし!

(令和5年9月23日読了)
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