【御朱印男子 13】杜本神社

御朱印男子
杜本神

感謝をこめて 平成最後の初詣(は、近鉄沿線へ)

上手いこと言うなー、と感心するのは、近鉄の初詣ポスターのコピー文句。伊勢神宮、橿原神宮、春日大社の三社の大判ポスターが、近鉄各駅に掲出されており、南大阪線ヘビーユーザーの小生は、毎日このポスターを拝んでいるという次第。その名文句に踊らされているわけでもないが、近鉄沿線の初詣が続く。

大黒寺の参拝を終え、次に向かったのは、これまたかつて通った高校の最寄駅「駒ヶ谷駅」の近くのお宮さん。

さて、まるで線路に「撒き菱」が敷き詰められたようになっているのは、何故かご存知かな?

これは、我々の世代にも責任があるのだが、実は生徒の線路侵入阻止のためである。この駅、駅舎が吉野方面行きホームにしかなく、阿部野橋方面行きホームへは、一般道の踏切を渡って改札を通り、さらに構内の踏切を渡ることになる。なにせ、田舎のこと。1時間に3本あるかないかの電車に乗るため、一般道の踏切をくぐって、ホームへ走る、なんてことは日常茶飯事だった。非常に危険だ。何より、線路侵入は立派な犯罪だ。この撒き菱、小生らの時代(昭和50年代w)には無かったが、その後、設置されたんだろう。近鉄さん、余計なカネ使わせてゴメンねw。多分、学校とどっちが持つねんってことで、揉めたんやろけど…。

古代より、「近つ飛鳥」と歌にも詠まれしこの一帯、タイトル上に掲載した日本最古の官道、「竹内街道(たけのうちかいどう)」も駒ヶ谷を通る。難波津、堺と飛鳥を結び、遣隋使が往来した太古の官道が、近鉄最大乗降客数の阿部野橋と飛鳥、吉野を結ぶ南大阪線と並行しているというのだから、歴史好きも鉄おたも、ロマンを抱く話ではないか。

駒ヶ谷駅近くを流れるその名も「飛鳥川」(河内飛鳥川)を渡ったところに、お地蔵さんを祀る祠あり。南北朝時代に作られたと推定される、羽曳野市内では最古の石仏「十一面観音像」と、上半身のみが残る地蔵菩薩が祀られている。ここの前が竹内街道。

街道沿いに所々、このような燈籠が設置されていて、旅人を案内してくれる。昨今は、外国人観光客の姿も見受けられるというから、我が母校周辺も、国際的になったもんだ。って言うか、古代から国際的だったわけだけどw。

【御朱印File 14】杜本神社(もりもとじんじゃ)

式内社(名神大社)。『延喜式神名帳』に記さるる「河内国安宿郡 杜本神社二座」の論社は、羽曳野市と柏原市に一社ずつあり、当社が有力な論社と考えられている。

御祭神は、経津主命(ふつぬしのかみ)経津主姫命(ふつぬしひめのみこと) の夫婦神。創建年代は不詳だが、崇神天皇の時代、経津主命の14世の孫、伊波別命(いわわきのみこと)が、祖神・経津主神の陵墓のある地に住み、経津主神を祀ったのが起源であるとの説がある。貞観元年(859)に正四位を授かり、崇敬益々深まる、と。延喜9年(910)には、朝廷より上申の日に幣帛(へいはく)と馬十匹を賜り、競馬(くらべうま)を催す杜本祭が盛大に行われていたらしい。

天正年間、織田信長の高屋城攻めにより、社殿焼失。これは大黒寺と同じ運命だな。現在の社殿は、江戸時代に大坂の高津宮から移築されたもの。

しかし、境内には「由来」の解説が、神社によるもの二基、羽曳野市によるもの、竹内街道保存会(?)によるものと四基あり、どれも微妙に言う事が違っていて、どれがホンマやねん? ってところだ。これは神社として、ちゃんとしたパンフを用意された方がいいんじゃないかと思うが…。

社は森の中にあるが、竹内街道沿いに立派な社号標があるので、場所はすぐわかる

石段を上ると、まず一の鳥居に。左右に道が分かれるが、左へ行くと、杜本神社の神宮寺だった「金剛輪寺址」にたどり着く。寺伝では、創建は聖徳太子の時代とされるが、実際には奈良時代後期と考えられている。やはりここも、織田信長の大坂攻めの兵火で焼かれてしまう。その後、再建されるも、明治4年、神仏分離によって廃寺となった。今も、堂宇が残されているが、廃寺以降に再建されたものだろう。土台がコンクリートやし(笑)。

扁額には「近飛鳥之寺」とある

一の鳥居まで引き返し、右手に進むと二の鳥居。ここから道の両側は竹林となっている。昨年の台風被害だろうか、かなりの数の竹がへし折られて、無残な姿をさらしている。竹をここまでへし折ってしまうのだから、あの台風の恐るべき威力ったらもう…。

ほどなく、拝殿が見えてくる。実は、1月3日に参拝した折、アホなことに、拝殿の写真を撮るのをうっかり忘れていて、3日後にまたやって来たという…(笑)。そのため、拝殿の扉は固く閉ざされ、中をうかがうこともできず…。賽銭箱はどこに…?

背後には江戸期に高津宮から移築された本殿がある。その本殿脇には「人身獣面」の「隼人石」という石造物があるが、これはまたの機会にゆっくり拝見させていただくとする。と言うのは、体の良い言い訳で、実は今回2度とも「見せてもらえますか?」と聞くのを、うっかり忘れていたという、どこまでもボケな小生であったとさ(笑)。

境内の奥の方にも鳥居が建ち、その先には小さな社が二社並んでいる。「こっち、こっちー」と手招きするように…。ってわけで吸い寄せられるように向かって行くのであった(笑)。

その鳥居の手前に、二つの意味ありげな石が。まず、こちらは「藤原永手の墓碑」とある。なんか他人とは思えぬ…(笑)。藤原永手(714~771)は、正一位左大臣、奈良時代の人物で、藤原房前の次男。藤原北家。現地では、写真の右側の石が墓だと思ってたんだが、改めて写真を見ると、お神酒は墓碑らしき石柱の前に供えられているし、左の五輪塔の頭みたいなのも気になる…。果たして、どれがホンマの「藤原永手の墓」なんでありましょうか?

永手さんの墓の隣には「亀ノ石」。これはわかりやすい形状。長寿の御利益ありとのこと。

鳥居の先、向かって右側が「維日谷稚宮(いひやわかみや)(若宮神社)」。御祭神は反正天皇(=仁徳天皇の第三皇子)、伊波別命(いわつくわけのみこと)、遠登売命(おとめのみこと)。この社の南、約300mの日谷椎宮森と呼ばれた松林から、明治の末に移遷された。ちなみに、この森は、反正天皇の故事に因む「近飛鳥(ちかつあすか)の名前の発祥の地とされている。「近飛鳥」という地名は、「古事記」に記載が見られる。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊した折、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたという。

左の「南木(なぎ)神社」は、楠木正成を祀る、いかにも南河内らしい社。正成の子・楠木正行が父の像を自作して祀ったとの伝えがある。で、そのお隣にはなんとびっくり、「大楠公御首塚」があるではないか! え、たしか首塚は観心寺にあったはず、ってか、あるわけで、何故にここに? そう言えば、「楠」を二つに割って「南木」ってことか…。何たるネーミングの妙!

まあ、小生らのような河内のおっさんには、楠木正成なんてお方は、非常に身近な武将さんで、言うたら、河内の大英雄なんだが、まだまだ知らんことが多いなあと思う。そう言えば小生、ここの近くの高校では「地歴部」やったわ(笑)。どんな地歴部や、一体、何しててん、というところだな(笑)。

上記二社のほかにも、摂社があり、そこはもう「式内社」の風格を十分に感じさせる。右奥から、天満宮光圀稲荷神社猿田彦大神光吉稲荷神社皇大神宮が並ぶ。猿田彦大神以外は鳥居が構えられているが、猿田彦大神は古代の自然崇拝を髣髴とさせるいでたちである。

<墨書>
奉拝 
杜本神社
平成三十一年一月三日

<朱印>
右上に神紋
中央上に「式内杜本神社」、下に「隼人石」をあしらった朱印

紋だが、あまりにも「真言宗輪宝」に酷似しているが、神社でなぜに輪宝紋なのか? こういうことを朱印をいただいたときに、質問せなアカンでしょうに…。それこそ、5歳の少女に「ボーっと生きてんじゃねーよ!」って叱られる(笑)。

改めてブログに起こしてみると、謎が謎を呼ぶって感じで、色んな疑問が湧いてくるから、おもしろいもんだ。遠いところではないので(繰り返すが、高校3年間通っていたw)、また近々に訪れて、隼人石の見学と合わせて色々聞いてみようと思う。こうしてまた、新しいご縁を授かったのだから、喜ぶべきだろう。

<ところ>大阪府羽曳野市駒ケ谷64 <あし>近鉄南大阪線駒ヶ谷駅徒歩7分

(平成30年1月3日 参詣)


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