【上方芸能な日々 素浄瑠璃】第19回 文楽素浄瑠璃の会

素浄瑠璃
第19回 文楽素浄瑠璃の会

H2808sujoruri_omote記録的な酷暑の中、文楽劇場へ向かう。

今年の素浄瑠璃の会は、なかなか珍しい演題がかかるので楽しみにしていた。まあ、楽しみの裏返しは「不安」以外の何物でもないのだが。「咲甫と千歳で何が不安なのか?」と聞かれると思うが、いや別に太夫が不安なのでなく、この稀曲、珍品、復曲の類を、小生ごとき三流愛好家が果たしてどこまで理解し、味わうことができるのかという不安である。文楽通いを始めて35年以上になっても、まだまだ浄瑠璃を深く味わえていない自分がいる。それだけに、浄瑠璃は文楽は、底なし沼のような魅力と魔力にあふれているのだ。

しかしだな、これまで素浄瑠璃の会と言えば、咲さん、英はん、津駒はんの3人が固定メンバーだったのだけど、今年は咲甫、千歳とガラッと顔触れが変わった。そこへ座談会も行われるという。世代交代の波が来たか? ま、内子座文楽とモロに日程重なったし、そろそろここらあたりの世代に、こういう機会があってもいいから、ちょっと新鮮な気分で聴くことに集中しよう。

楠昔噺(くすのきむかしばなし)

■初演:延享3年(1746)、竹本座
■作者:並木千柳(宗輔)、三好松洛、竹田小出雲(後、二代出雲)の合作
*全五段の時代物で五節句を各段に織り込む。初段・正月、二段目・雛祭り、三段目・端午の節句、四段目・七夕、五段目・重陽の節句に関する景物を物語の内容に取り込む。
*「碪拍子の段」は三段目の口。切の「徳太夫住家の段」が5月5日で、口はその前日の物語

碪拍子の段
豊竹咲甫太夫 鶴澤清友

楠正成と六波羅の宇都宮公剛の対立が軸。これを「三大名作」(『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』)のゴールデントリオで描くのだから、きっと面白いはず。「通し」上演は初演以来ほとんどないらしく、おそらく面白いからという理由で、口の「碪拍子」だけが今日まで継承されている。当時の評判記『浪花其末葉』にも「楠の三の口おかしうてたまらず」とあるほどに面白いらしい。

で、どうだったか。たしかに面白かった。さすがゴールデントリオの作だけのことはある。ただ、『太平記』の概要や楠正成のなんぞやを多少なりでも知っていればの話かもしれない。そこは現代人には難しいところかな。これまでも何度も記してきたが、昔なら「誰でも知っている」エピソードを題材にしたり、そのスピンアウト的な筋立てだったりというのが浄瑠璃や歌舞伎には多いから、そりゃ「おかしうてたまらず」だったかもしれないけど、今の時代に『太平記』はまだしも、楠正成がどーのこーのは難しいだろうな。
そこを面白く聴かせ、客の興味を引き付けてこその太夫なんだが、その点でいくと咲甫は奮闘していたかな。老夫婦のやりとりや、通りがかりの男二人の口ぶりのおかしみに、咲甫の良さが感じられた。この舞台が河内松原ってのが、なんかおもろい、近鉄沿線の小生にとっては。

さてさて、これを人形芝居でやるとどうなるやら?と想像を巡らせるに、まずまず面白いんじゃないかと。で、結局そこは太夫次第。咲甫もいいけどこの手の話なら英はんあたりも面白くやるかなと思う。

 

蘭奢待新田系図(らんじゃたいにったけいず)

初演:明和2年(1765)酉2月、竹本座
■作者:近松半二、竹田平七、竹本三郎兵衛
*人形浄瑠璃としては文政6年(1823)稲荷社内芝居での興行を最後に上演途絶える

小山田幸内住家(おやまだこうないすみか)の段
竹本千歳太夫 鶴澤清介

『浄瑠璃素人講釈』(上下巻・岩波文庫)という文楽、浄瑠璃マニア必携の本がある。もちろん我が家にもある。その中で著者の杉山其日庵が、朱(三味線譜)を名庭弦阿弥に調べさせて四段目切と今回復曲された三段目切を稽古して語ったとある。

これもまた『太平記』が素材とされていて、足利尊氏vs新田義貞・楠正行という対立構図が描かれている。ちなみに「蘭奢待」は、新田義貞が内兜に焚きしめたとされる名香。この三段目切でもひとつのキーとなっている。

作風としては、上演後の座談会でも話題になったが、近松半二らしく登場人物Aだと思っていたら実は死んだとされていたBで、CはDだった…という実にややこしい。そこで混乱を来さぬようにとの配慮でパンフには先の『楠昔噺』ともども人物相関図が載っており、親切なことこの上なし(笑)。本公演の番付でも時代物など登場人物が多かったり、人物関係がややこしいものは欠かさずこれを掲載してほしいもんだ。

さて、千歳太夫はこの復曲を大熱演した。まあ、比べる太夫がいないのだからそれが熱演なのか、平凡な語りだったのかは判断できないが、こういうときに汗や唾飛ばしながら、見台をひっつかむように語る人は得だね。それだけで「大熱演」に見えるから(笑)。

千歳はこの段をぶっ通しで一人で語ったわけだが、「あ、ここで端場から切になるんやな」というポイントがあって、そこは多分、小生並みの三流愛好家でも感づく個所なんだが、後の座談会でも『浄瑠璃素人講釈』でも「そうだ」ということだったので安心した(笑)。

これを人形付きでやるとなると…。

座談会で千歳の言うには、多くの登場人物がずらっと揃って出る場面などは難しいんじゃないかと。登場人物Aの発言に対するそれぞれの反応の持って行き方などなどらしい(というハナシだった思うw)が、今日の二題、断然『蘭奢待新田系図』の方が人形芝居で観てみたいなあと思った。なんか伊坂幸太郎作品を浄瑠璃で聴いているみたないところもあって、なるほど、ここらが近松半二なのかと。

座談会も色々と「へ~、ほ~」の連続だったが大方は忘れてしまった(笑)。進行、聞き手の早稲田大学・児玉竜一教授が開口一番、「枝雀寄席みたいな感じ」と言ったのには爆笑したが(笑)。

で、そのセンセが千歳に聴く「(Aは実はBで、BはCで、Cが本当はAだったみたいな展開が終盤に連続するが)やっぱり伏線を張ってそれを臭わせて語るのか?」と。「そのへんは、Aが登場したところで少しBらしい肚を見せるため、Bの感じを入れつつもBの肚は見せずに…」とか、ややこしい回答だったが、まあ、そういうことだろうな。結局、太夫のその辺の力量を聴くのがこの出し物の面白さだろうし、もし人形がついて上演される日が来たとすれば、果たして人形がそこらをどう見せてくれるのかというのも大きな見どころとなると思う。是非、見せてもらいたいもんだ。

冒頭でも記したように、内子座とモロにバッティングして、お好きな方たちはそっちへ行ってしまったのか、例年よりもお客さん少な目。いや、かなり少なった。で、我々「居残り組」は、この実に珍しく様々な想像を膨らますことができた素浄瑠璃を独占したという次第。

(平成28年8月20日 日本橋国立文楽劇場)



 


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