【孤独死について】もしも、明日…*旧ブログ

*大原麗子の「孤独死」の報を受けて。
———————————————————————————————
以前から考えていたのだけど、何か現実味に乏しい気がしてすぐに忘れてしまう、それは「孤独死」のこと。
香港は多分、いやきっと間違いなく「孤独死」が多いんだろう、そう思う。
一体、隣が「陳さん」なのか「王さん」なのか「郭さん」なのか「司徒さん」なのか「欧陽さん」なのかさっぱり知らない、ということが多い。

昔の公屋(団地)での開けっぴろげな生活では、そんなこともなく、隣近所連携して生きていた、と同年代の香港人は懐かしがる、懐かしいということは、いまやそんな生活は、よほど田舎に住むか、島に住むかしか手に入らず、多くは、都会で50階建てやら60階建てのアパートの何百室ある部屋のひとつに暮らしているわけで、自分やその家族をきちんと把握しているのは、グランドフロアのコンセルジュの人間だけ、というところか。
だからかどうか、先日、この在所で人類豚流感患者が出たとき、コンセルジュにおばさんたちが集まり、根掘り葉掘り「何階の何号室か」「子供か大人か」など質問していた。もっとも何階の何号室のだれそれと言われたところで、子供の同級生とか、自分の親戚とかでもないかぎりは、ぱっと顔が浮かばないだろう。
翻って自分のことだが、幸いなことに同じ棟にこの部屋のオーナーが住んでいるので、「だれも自分を知らない」という不幸な状況だけは回避できている。ただし、オーナーと毎日交流しているわけじゃない。家賃の支払いが遅れているときなんかは、極力、顔を合わさないよう祈ったりしているしww。
そして、去年、自分で会社を興し、自宅をとりあえずオフィスとし、デスクワークなんぞに励んでいるんだけど、個人商店で社員は自分だけというわけで、「病欠」なんかしても誰にも知らされることはない。
病気や怪我で寝込んでいるだけならいい。メールや電話で斯く斯く云々と知人友人に伝えておけば、一応、その場だけでも心配してくれるだろう。

問題は、「うう!」とかなって突然死んでしまったときである。
今回の大原麗子のように。
独身、独居の気楽さは言うまでもないことだが、一方で、万一のとき、だれが気づいてくれるのだろうかという不安、いや、恐怖かもしれない。

「ツイッターの緩やかなつながり」も「ミクシーの半強制的なつながり」も「ブログの更新頻度」もこんなとき、恐らくは役にも立たないんじゃないか。
「念のため」と、緊急連絡先として実家や弟の連絡先を数人に教えてみたところで、自宅で人知れず息を引き取っていた場合、それも後の祭り的な手立てでしかない。

「そんなん、お前がいつまでも独身でいるからなわけで、さっさと結婚すりゃ解決するやろ」
というお声もかかりそうだが、まあ、それはそれとして、今の現状で言えば、のお話である。
風邪で高熱が出たときなんかは、瞬間的に
「いや~ん、このまま死んだらどうしよう~」って思うことも無きにしあらず。まあ、そんなんで死にはせんのだけど。
脳梗塞とか心筋梗塞とか、あるでしょ、年齢的にそういうのに突如襲われても不思議じゃないしね。

あと、笑い話ではあるけど、PCの中に入っている大量の「エロい物件」やテレビラックの抽斗の中の大量のエロいDVDなどを見られるのは、やっぱりバツが悪い。それが少々倒錯した趣味だったりすると余計にww。
こっちの新聞に「日籍男子神秘白骨死」なんてセンセーショナルに報道されるのもつらいものがある(死んでいるのにつらいかw)。

で、結局、アナタは何が言いたいのですか?
というお声も聞こえてきそうなので、そろそろ〆ますが、
「都会の孤独死」ってのは、ホント、淋しい最期だな…ってことです。
そして自分にもその可能性は大いにあると。バスタブで1時間も居眠りするような自分ですから、危険ですよね、ってことも。

「都会の孤独死」と言いながら、実はここは魚網を売る店が普通にある漁村ですがw。

なんか支離滅裂ですみません


コメントを残す