【慶祝香港特別行政區成立25周年 2】《跨越97》の2日間を振り返る

アイキャッチ画像:「あの頃の香港」。新空港開港1年前。まだ啓徳(カイタック)空港の時代。滑走路間近の九龍城の上空を絶えず着陸寸前の機体がかすめていた (轉角國際) >


祖国回帰、すなわち「香港返還」の頃、度々目にした言葉が「跨越97」。「返還を乗り越えて」とでも訳すか。「うまいこと言うなぁ~」と今でも思う。この年末に行われた張國榮(レスリー・チャン)のライヴのタイトルも確か『跨越97演唱會』だったと記憶する。

「香港返還」の日から25年となった今、その「跨越97」のメーンとなった2日間、小生は何をしていたか…。もはや記憶もあやふやになってきたが、こういう機会に思い出せるだけのことをまとめておきたい。でないと、いつ何時ボケてしまうかわからない。写真も「これでもか!」ってくらいたくさん撮ったし、きちんと「返還アルバム」に収めてあるんだが、そのアルバム自体がどこへ消え失せたのか…。きっと押入れの中の物を全部出せば見つかるんだろうけど、紙焼きなんでデータ化が面倒だ。そんな次第で、ネットを漁って見つけた画像を使わせていただく。

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6月30日、いよいよ英領香港もこの日が最後。とにかく蒸し暑い…。時折、激しい雨も降る。余計にセンチメンタルな気分になるんだが、同僚の香港人は、ある者は夫婦で海外旅行、ある者は連休をいいことに、一族郎党集まって連日の大麻雀大会という具合に、さほど「最後の日」には関心がない。連中曰く「返還が決まった時の方がはるかにセンチメンタルになった」と。はあ、そんなもんかいな…。

小生はこの日の昼間は、カメラを首からぶら下げて、あちこち歩き回った。と言っても、中環(Central)界隈限定だが(笑)。この日の夜、英国側のお別れ会「日落儀式(サンセット・フェアウェル・セレモニー)」が催される添馬艦(Tamar)海軍基地、深夜、人民解放軍に引き渡される駐港英軍總部(駐香港英軍総司令部)こと威爾斯親王大廈(ウェールズ親王ビル)あたりを随分歩いた。時折、プールでくつろぐ英軍兵士が見えた。また、別の角度からはブリタニア号の船影も見える。

山側へ行く。パッテン総督一家が暮らす香港総督府(現・禮賓府)に向かう。黒山の人だかりである。パッテン総督を見送ろうと、市民が殺到している。割と市民から支持されていたパッテンだが、それはすなわち中国政府からは支持されていないことを意味する。最後に英国への好印象を残して去ろうとするパッテン総督は、積極的かつ性急に「民主化」を推し進めた。そのため、パッテン総督は「千古罪人」として國務院港澳事務辨公室主任の魯平から毎日のように罵倒を浴びせ続けられてきた。結局、「民主化」は中途半端だったと小生は思った。時間があまりにも足らなかったのだ。そのために返還後の香港は「民主化」をめぐって、市民と中央の溝はどんどん深まっていった。一方で英国は、「最後の好印象化」に成功した。

しかしまあ、凄まじい人の数である。屋外なのに蒸し暑さも手伝って、息苦しいほどだ。いくら「パッテンを一目」と思っても、こんな状態で長居は無用だ。さっさと帰宅して、晩飯の用意でもしよう…。さようなら、パッテン…。

そんなわけで、この瞬間は見ること叶わず…。英国撤退の時が刻一刻と迫っていた by “新浪網”
パッテン総督を乗せた黒塗りのロールスロイスが総督府を去ってゆく… by “新浪網”

夜は社内のご親切なる方の取り計らいで、TVBの返還カウントダウン芸能特番の取材パスを頂戴したので、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)の文化中心(Calutural Centre)で観覧。土砂降りの中、すでに彌敦道(Nathan Road)は歩行者天国になっており、人が埋め尽くす。人垣をかき分けて会場入り。番組はプレスのみ入場の無観客なのですっごい得した気分で、次から次へと登場する香港の人気歌手のパフォーマンスを堪能した。幕間(多分、この時間にはニュース特番が放映されていたんだろう)には、司会者の亡き「肥姐」こと沈殿霞(リディア・サム)と記念撮影してもらったりして、同僚と二人「なかなかええ返還の思い出やね!」ってな感じで楽しんでいた。

香港の人気スターにキャーキャー言ってた頃、添馬艦では英国側の送別式が豪雨の中、開催されていた by “毎日頭條”

23時過ぎには、ステージ上では前撮りで「カウントダウン」が始まる。「え!もうやってしまうん?」って感じだったが、ま、そういうもんですわな(笑)。ここで番組も一段落ということで、会場を後にしてビクトリアハーバーを望むプロムナードへ。小雨程度に落ち着いていたが相変わらず降りしきる雨。パッテン総督一家が乗り込み、チャールズ皇太子ブレア首相らと香港を離れるブリタニア号も見える。

さてさて、ここからは何度も拙ブログで記してきたように、五月雨式にカウントダウンが始まり…。気が付いたら、その歴史的瞬間はとっくに過ぎ去っていたというお笑いを一席…。である(笑)。

わーわーと騒いでいる頃、立法局では「臨時立法会」成立で失職することとなった民主派議員が「必ず議会に帰ってくる!」と気勢をあげていた。懐かしい顔ぶれに25年の歳月を感じる

小生、当時は某夕刊紙に返還前後の香港の街をリポートする連載記事を書かせていただいており、7月1日の紙面では1面トップと社会面で2本、記事依頼をもらっていた。「瞬間」が終わったなら、さっさと引き上げて2本の記事執筆にとりかからねばならない。帰宅途中、MTR銅鑼灣からバスに乗り継ぐとき、そごの大型ビジョンは丁度ブリタニア号に乗り込むパッテン総督を映し出していた。画面片隅に「直播」とあったから生中継だったのだろう。この瞬間、ようやく「ああ、ここは英領でなくなったんだな…」と実感した。

そごうのビジョンで見たのは、この光景だったんだろう。これでいよいよ英領香港は終わり、中国香港がスタートした by “看雜誌”

うたた寝を繰り返しながらなんとか記事2本を仕上げたのが、明けて午前8時。その間、何度かデスクから「こんなこと書いて、あんなこと知りたい」などやいのやいのと電話が入る。硬派な記事は1面、軟派な記事(たしか売春ネタww)を1本、FAX送信。で、またデスクから電話。「あのな~、申し訳ないねんけどな、神戸の連続殺人の犯人逮捕でな~、香港の1面トップは無くなった。セカンドでいくわ」と。どうでもいいです。どこでもいいです。原稿料さえくれたら(笑)。酒鬼薔薇君、よりによってこの日に逮捕とは…。

7月1日0時を回ると、続々と人民解放軍が進駐してきた。土砂降りにもかかわらず、車上でピクリとも動かない兵士に「よう訓練されてるな~」と感心したもんだ by “轉角國際”

朝のニュースは、解放軍艦艇が香港近海を航行中との報。ふと窓の外を見れば、まさに今、香港仔(Aberdeen)沖に解放軍艦艇らしき船団が。このとき、「おお、ここは中国になったのか」と実感。同時に激しい睡魔に襲われ…。

1997年7月1日付の『蘋果日報』。大見出しと写真だけだが、何百行の記事にも勝る1面トップ。同紙がもっとも輝いていた時期でもあった

うつらうつら寝ていたら、11時ごろ。「いかん!新聞買わねば!」と馴染みの新聞スタンドに走ったが「これしかないよ~」と渡されたのが『快報』。『東方日報』『明報』『蘋果日報』はもとより、経済紙、英字紙、左派紙に至るまですべて売り切れ。そりゃそうやよな。

同日の左派紙『文滙報』。江沢民国家主席の直筆があるところに、同紙のポジションがわかる
英字紙『South China Mornig Post』は、英字紙としては極めて珍しい漢字で攻める。「回帰」の二文字はインパクト絶大だった。後日、箱入りでの再販があったので、即購入!
25周年の主要紙。一般紙の1面は同一デザインの祝意広告、左派紙は習近平国家主席訪港を1面で赤い広告は中面で、英字紙は習主席が1面で赤い広告はこちらも中面 (お友達撮影)
当たり前といえばそれまでだが、今回『文滙報』はすさまじい分厚さ。何分冊あるのやら。到着がたのしみだ。ほとんど広告だろうけどww (お友達撮影)

午後は「香港仏教協会」主催の返還記念行事が開かれる香港スタジアムへ。しれーっと取材パスを申請したら、すんなりくれた(笑)。香港仏教協会は筋金入りの親中派組織である。それはわかっていたが、行ってさらによくわかった。約3万人の仏教徒(?)で埋まったスタンドは、五星紅旗の小旗が埋め尽くす。少年団が五星紅旗をたずさえて行進し「国旗掲揚」。流れるのは『義勇軍進行曲』。興奮気味に掲揚を見守る周囲の観客。「親中派スゲェーー!」と驚くばかりの光景。この後「般若心経」を全員で唱える。日本とは違い、えらく間延びした明るい曲調が頭に残る…。そして豪華絢爛な歌謡ショーと続くのだが、雨がひどくなったので、引き上げるとした。

夜はビクトリアハーバーで花火大会が行われた。ラジオが現場の音楽とリンクして皆で『明天會更好』を流すから全員で歌いましょう、ということらしく、ラジオを持った人も多数いる。小生は灣仔の告士打道をまたぐバイパスになっている馬師道(Marsh Road)の上から花火を眺めていた。1985年に台湾でヒットした標準中国語の歌だが、これがなぜか返還前後によく流れていた。「香港明天更好(香港の明日はもっとよくなる)」との願いを込めてのことなんだろう。なんかジーンときた。小生もいつの間にか歌っていた。もしかしたら、このひと時が最も「香港返還」を実感したかもしれない。あの時、小生の周りで歌っていた大勢の人たちは、この25年をどう過ごし、どう迎えたのだろうか…。

という、1997年7月1日の小生の思い出である。ま、どうでもいいですよね(笑)。でも、冒頭にも記したように、こういう節目に思い出せるだけのことを残しておかないと、この先、何があるかわからない。なので、備忘録として、25年前の2日間のことを残しておくことにした。

一介の在住外国人でしかなかった小生だが、それはそれなりの「跨越97」だった。

「香港」の二文字が目を引く当時の天安門広場。行き交う人々の服装に、これまた25年の歳月を感じる by “轉角國際”

転がる香港に苔は生えない 』(文春文庫)  星野 博美

中国返還前の香港で、たくましく生き、様々に悩み、見果てぬ夢を追い続ける香港の人々の素顔。第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作 

←単行本、めっちゃ分厚いです。赤の他人のハナシなのに、なぜか「自分事」のように読みふけった1冊。<跨越97>を経験した人間なら、誰でもそうなってしまったはず。今また、読んでみたくなった…。


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