【御朱印男子 11】生國魂神社

御朱印男子
生國魂神社

大阪市内有数のラブホ街と言えば、「生玉」。
「あいつら、あれから生玉行きやがったんやで、知らんけど」を標準語に翻訳すると「あのカップルは、あれからラブホテルへ行ったに違いないですね」となる(笑)。

で、この生玉界隈は、ラブホの数など取るに足らないほどの神社仏閣のひしめく地域でもある。千日前通と松屋町筋の交差点あたりは、その名も「下寺町」というほど。そんな「生玉」の地域名の由来ともなった、古代より鎮座ましますのが今回参拝した「生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)」、通称「いくたまさん」である。

【12】生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)

式内社。旧官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。遠い過去には「難波大神社」、「難波大社神」、「難破坐生國咲國魂神社」などの記載も見られる。今でも社号標には「難波大社 生國魂神社」と記されている。

ちなみに、近松門左衛門の『曾根崎心中』は「生玉社の段」を冒頭に据えている。だから、界隈のラブホで盛り上がるのもいいが、『曾根崎心中』のような結末にはならないことを祈る、ってもんだ(笑)。

上町台地のど真ん中と言ってもいい場所なので、拝殿、本殿の背後には空が広がるのみ。そして神域は緑豊かで、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。

主祭神は 生島大神(いくしまのおおかみ)足島大神(たるしまのおおかみ)。相殿神は 大物主神(おおものぬしのおおかみ)。平安時代から鎌倉時代にかけて行われていたとされる 八十島祭(やそしままつり)の祭神だったと考えられているのが、生島大神、足島大神だが、史料では生國魂神社と八十島祭の関係は明らかになっていない。

社伝によると、神武天皇の東征の際、天皇が摂津国石山碕(現在の大坂城付近)に生島神・足島神を鎮祭したのが創建とのことだが、旧鎮座地について史書に詳述はない。

『日本書紀』孝徳天皇の条に「仏法を尊び、神道を軽んじた」とあり、例として、生國魂社の鎮守の森の木を伐採したことが記されている。『延喜式神名帳』には「難破坐生国咲国魂神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社 に列している。

名神大社 とは、律令体制下において、国家的事変の発生や発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である名神祭を執り行う神社のことで、現在の大阪市内では生國魂神社のほか、住吉大社(住吉区)、大依羅神社(おおよさみじんじゃ 東住吉区)、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ 東成区)、高津宮摂社の比売許曽神社(中央区)がある。

『天文日記』等によれば、蓮如が石山本願寺を建立した際に、生国魂神社の隣接地に建立したとあるが、戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦により焼失。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際に現在地に遷座したとされる。大坂夏の陣で再び炎上したが、江戸幕府によって再建された。

明治45年(1912)1月、「南の大火」により社殿焼失、大正2年(1913)11月、再建。昭和20年(1945年)、米軍による空襲で焼失。昭和24年(1949)、木造の本殿を再建するも、翌年のジェーン台風で倒壊。昭和31年(1956)、鉄筋コンクリートで生国魂造の本殿を再建。

生玉さんでは、神社の例祭以外に、9月の第1土曜、日曜に開催される「彦八まつり」で、大いに賑わう。上方落語協会による「ファン感謝デー」で、協会所属の噺家が総出で屋台を出したり、落語会を開いたりして、参拝者と触れ合う。小生も毎回訪れるが、馴染みの噺家さんたちと楽しい時間を過ごすことができる。

「彦八まつり」は、「上方落語の祖」と言われる 初代米澤彦八 が、生玉さん境内で人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(とうせいしかたものまね)」の看板を出して興行したという歴史のもとに開催されている。境内には、その初代彦八の記念碑がある。碑文には

上方落語の祖ともいうべき初代米澤彦八の名を残すべく、その碑を建立することは、我々の先輩である五代目並びに六代目笑福亭松鶴父子のかねての念願でございましたが、残念ながら両人ともその志を果たし得ぬうちに他界致しました。然るにこの度、六代目松鶴の五年忌に際し笑福亭仁鶴を筆頭とする一門がその遺志を継ぎ、彦八ゆかりの当地に「米澤彦八の碑」を建立する運びと相成りました。これを機に、上方落語への益々のご愛顧を賜りますよう皆々様にお願い申し、併せて賛同の意を申し述べさせていただきます。

平成二年九月 上方落語協会
桂小文枝
桂春団治
桂  米朝

とある。

この生玉さん、結構な数の境内社がある。

右に天満宮、左に住吉神社
天照大神を祀る皇大神宮

「色々いらっしゃいますから、お願いごとに応じて、各社御参拝ください」ってわけで、案内板も建っている。

精鎮社 は、元は表参道の社殿に向かって左側にあった蓮池に祀られる「弁財天社」だったが、蓮池の埋め立てで戦後、場所を移した。ちなみに蓮池のあった場所は、現在は児童公園になっている。精鎮社社殿の手前は、金網で覆われているが、池になっており、弁財天の面影を感じる。商売繁盛、海上安全のご神徳があり、鮮魚商、漁師や釣り人の信仰を集める。祭神は事代主神、比咩大神。

稲荷神社

精鎮社の隣には 稲荷神社 源九郎稲荷神社。お稲荷さんと言えば狐。狐と言えば『義経千本桜』の源九郎狐。そんな連想ゲームみたいな…。稲荷神社は、佐賀県祐徳稲荷の御分霊。鍋島藩と同藩蔵屋敷出入り商人が篤く崇敬したとのこと。商売繁盛、五穀豊穣、除災招福のご神徳あり。一方の源九郎稲荷さんは、吉野の源九郎稲荷のご分祀と、閉館された道頓堀中座の奈落に祀られていた八兵衛大明神を合祀。

源九郎稲荷さんの隣には、鴫野神社。祭神は市寸島比売神、大宮売神、淀姫神。淀姫が篤く信仰していたとのことで、別名を淀姫社。俗に「巳(みぃ)さん」が住むと言われる御神木が拝殿の後ろにそびえているのが見える。女性の守護神とされ、縁結び、悪縁切りのご神徳あり。ということで、「崖縁占」なる占い小屋が隣接。まさに境内の台地の崖っぷちに建っている。名称が色んなことを暗示しているようで、中々上手いネーミングだと思う。土・日の10時から16時まで開業しているようだ。

奥から、浄瑠璃神社家造祖神社(やづくりみおやじんじゃ)鞴神社(ふいごじんじゃ)城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)。

<浄瑠璃神社> 祭神は近松門左衛門ら人形浄瑠璃関係諸霊。芸事上達のご神徳。いかにも生玉さんらしい摂社。

<家造神社> 祭神は手置帆負神、彦狭知神。家づくりの祖神をお祀りする全国唯一の神社。大坂城築城にあたってもご神徳を発揚される。現在も建築関係者の崇敬篤い。家庭円満の神さんでもある。

<鞴神社> 祭神は天目一箇神、石凝杼売命、香具土神。金物業界の守護神。11月8日の例祭には、刀匠による「刀剣鍛錬神事」が行われる。

<城方向八幡宮> 祭神は誉田別命、気長足媛命、玉依比売命。大坂城の鬼門の守護神として城の方向である北を向いていたことから、この名に。元は、鳥居前の蓮池にあった。現在は東向きである。勝ち運、方除けの神さん。

境内には、先述の米澤彦八以外にも、織田作之助井原西鶴 という大阪の二大文豪の像も建つ。

オダサクの実家は生玉さんの近くであった。作品群には生玉さんを書いたものも多い。『木の都』には下記の一節があり、境内や界隈の様子がわかる。

それは、生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、……

この一節から、オダサク幼少時にはまだ、鳥居前の蓮池は存在し、城方向八幡宮もそこにまだ鎮座していたことがわかる。巳さんの木を怖がる幼いオダサクであった。

こちらは西鶴さん。一昼夜かけた「矢数俳諧」を生玉さん境内で開催している。延宝8年5月7日には一昼夜独吟4000句を成し遂げた。その会場となった南坊の跡に像がある。この矢数俳諧開催の経緯は、朝井まかて の小説『阿蘭陀西鶴』に詳しい。

<墨書>
奉拝
生國魂神社
平成三十年八月二十八日
<朱印>
難波大社生國魂神社

境内の北側には「天王寺七坂」のひとつ、真言坂。他の坂に比べて短い距離だが、由緒ある坂である。明治の廃仏毀釈まで、生玉さん周辺には神宮寺であった法業寺などいわゆる「生玉十坊」が栄えていた。そのうち、神社北側にあった六坊がすべて真言宗だったことから、この名が付いたと言われている。今では、マンションの谷間の小洒落た石畳の坂道となっている。有栖川有栖 が短編集『幻坂』の一篇「真言坂」で、この界隈を舞台にした、ちょっと不思議な物語を綴っている。興味があれば、ご一読を。

<ところ>大阪市天王寺区生玉町13-9 <あし>大阪メトロ谷町線、千日前線谷町九丁目から徒歩約5分。近鉄大阪線、奈良線上本町駅から徒歩約10分

(平成30年8月28日 参詣)



 


コメントを残す