【上方芸能な日々 素浄瑠璃】第17回文楽素浄瑠璃の会

素浄瑠璃
国立文楽劇場開場30周年記念 第三十六回邦楽公演
豊竹越前少掾没後二百五十年
第17回 文楽素浄瑠璃の会

人形芝居なしの義太夫節だけを聴かせるのが「素浄瑠璃」であります。
今日は文楽劇場へそんな「素浄瑠璃」を聴きに行って来た。

こんなマニアックな会、よほどの物好きなお客さんばかりとお思いだろうけど、行ってみればわかります。外人さんグループあり~の、ポツポツと若者たちおり~ので、場内はざっくりと8割弱の入り。ひところの、通常公演の「夜の部」よりも多い。とにかく皆さん、お好きです(笑)。

まず、「豊竹越前少掾(とよたけ・えちぜんのしょうじょう)」とは何者か。

豊竹座の開祖、初代豊竹若太夫のことで、今年はちょうど没後250年にあたる。現代では、文楽太夫の名前は全て「○○大夫」だが、昭和30年ごろまでは「○○小掾」、「○○掾」を名乗る太夫がいた。厳密には「名乗る」のではなく、「掾号」を宮家から拝領するのである。太夫のみならず、商人や刀匠など技芸に優れた者に下賜される官命だった。人間国宝とか文化勲章とかが確立した現代においては、太夫への「掾号」下賜が復活することはないんじゃないかな。そんな次第で、越前少掾という人も非常に優れた太夫だったということ。

豊竹座の代表ばかりか、興行権所有者と芝居小屋の所有者も兼ねるというスーパー実力者。

北条時頼記(ほうじょうじらいき) 女鉢の木雪の段

■作者:西沢一風、並木宗助、安田蛙文 合作
■初演:享保11年(1726)、豊竹座
「女鉢の木雪の段」は豊竹越前少掾の代表曲で、『北条時頼記』の大切(おおぎり=全段の終結部)。近松門左衛門の『最明寺殿百人上﨟』下巻の文章をほぼそのまま用いる。江戸時代には人気演目だったが、明治10年以降は上演途絶える。今回、大阪の地においては実に130年ぶりの公演となる歴史的な舞台。


太夫*豊竹英大夫、三味線*鶴澤清友

そんな次第で、やっぱりこれは「稀曲」、「珍曲」の類に入るんだろう。そこを百戦錬磨の英大夫と清友がどんな具合に聴かせてくれるか。

初代若太夫にちなんだ名曲を語らせてもらうのは、非常に光栄」と、英大夫。過去には平成18年、早稲田大学の公開講座で語ったことがあると言う。英大夫の祖父は十代若大夫、その弟子の三代竹本春子大夫は英大夫の師匠ということもあり、縁もある。聴きどころは要所要所に出て来る「文弥節」と呼ばれる古浄瑠璃で、それを丁寧に語りたいとも。

さあ、その「文弥節」なる古浄瑠璃の一節だが、あらかじめ説明があったことで「はあはあ、ここですか」と注意深く聴いたからか、「なるほど、こういう感じが昔の人には喜ばれてたわけか~」なんて、わかった顔して聴いていたが、たしかに違うのよね~。「何がどうか」とか深く追求はしないでね(笑)。

惜しむらくは、英大夫にもう少し声量があれば、もっと深く入り込んでくるものがあったと思うけど…。ま、そこはこの人の「芸風」ということで…。

で。どれほど「歴史的」な公演であり、「稀曲」、「珍曲」の類だったのかは、あいかわらずボンヤリな聴き手なもんだから、ついによくわからなかったという次第でまことにお恥ずかしい限り。床本読み込んで、もう一回聴ける機会があれば…、なんて厚かましいことを思っていたりして、もうねぇ…(笑)。

 

嬢景清八嶋日記(むすめかぎよやしまにっき) 日向嶋の段

■作者:若竹笛躬、黒蔵主、中邑阿契の合作という紹介が多いが、越前少掾生前の旧作をつなぎ合わせた作品。『大仏殿万代石礎』の内容を中心に、『待権門夜軍』第三、『義経腰越状』第三を流用して構成
■初演:明和元年(1764年)10月大坂豊竹座
明和元年9月13日、84歳で亡くなった越前少掾の追善曲として豊竹座で上演。「日向嶋の段」は三段目切で、原作の『大仏殿万代石礎』の三段目切でもある。追善曲ということで、太夫は白木の見台で語るのがしきたり。この日の咲さんも白木の見台で。人形芝居が入ると、手摺は青竹が使われる。


太夫*豊竹咲大夫、三味線*竹澤宗助

本来、咲さんの相三味線は鶴澤燕三だが、報道されているように軽い脳梗塞に倒れ、現在は秋の公演での復帰に向けてリハビリ中とのこと、代演は宗助にて。

この段は咲さんの十八番だろう。それだけに非常に聴き応えのある語りだった。咲さん自身の初演は昭和24年と言うから、もう半世紀以上前に遡るわけで、さすがに語りこんでいるという風情。宗助もよく食いついて来て弾いていたと聴こえた。

「景清」は、我が町・田辺(大阪市東住吉区)の古刹、「法楽寺」とは少しばかり縁がある。この段の主人公、悪七兵衛景清は平家の残党。源頼朝暗殺に失敗した後、自ら両目をえぐって盲となって日向嶋に流される。この景清が慕い続け位牌も持ち続けているのが、平重盛。重盛は清盛の嫡子で小松内大臣とも呼ばれており、景清が重盛の位牌に向かい「南無、小松内大臣平朝臣重盛、浄蓮大居士速証菩提」と唱えてる。この重盛こそ、法楽寺の創建者。よって法楽寺の院号も「小松院」である。

太夫、三味線が並んで、しばしの静寂。段は謡から始まる。燕三は「『日向嶋』は謡が長くて重々しく、じっと待っている間に身体が金縛りのように固くなってきて、撥が下りなかった」と、初演の時の「恐ろしい目に遭った」記憶を述懐する。「曲の格に負けてしまっている」とも。

東風(豊竹座風)、西風(竹本座風)入り混じる語るにも弾くにも難しい段だが、ラストの舟歌で重い空気が一変するような流れは、聴いていても心の視界が一気に晴れる思いがする。やはり、人形芝居で何度も観ているということも手伝って、さきほどの『北条時頼~』よりも情景が頭の中にちゃんと再現できたのも、曲に聴き入ることができた一因か。そういう意味では、現代人は好むと好まざるにかかわらず、「ビジュアルありき」でないと浄瑠璃を堪能できなくなっているのか? はたまた小生がボンヤリだからか? 多分、後者かな(苦笑)。

 

恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)
 道中双六より重の井子別れの段

■作者:吉田冠子、三好松洛 合作
■初演:宝暦元年(1751)、竹本座
・近松作『丹波与作待夜の小室節』の増補作。原作は上・中・下の短い三篇から成る世話物だが、本作は原作の上巻以前の物語を大幅に加え、全13段の建て演目に改作。「道中双六~」は十段目で原作上巻の文章ほぼそのまま。
・初演時の太夫は、竹本大隅掾(後の大和掾)。竹本姓であるが、元は越前少掾の弟子で、この日最初の演目「女鉢の木雪の段」のワキを越前少掾引退公演で勤め、上野少掾を受領。後に竹本座に入座し、紋下(一座の代表者)として活躍する。声量に乏しいながら、音声美麗で「声大和」とのニックネームを持つ。現代にも「大和風」の芸風で受け継がれている。
・大和風の代表的なものとしては、「楼門、「葛の葉子別れ」、「神埼揚屋」、「重の井子別れ」などがある。


太夫*竹本津駒大夫、
ツレ・竹本小住大夫 三味線*鶴澤寛治、ツレ・鶴澤寛太郎
「それにしても寛太郎の末恐ろしいことよ!」なんてのは、もはや小生の文楽観劇記においては、レギュラー化したフレーズだけど、やっぱり大したもんなんだよ、マジで。こんなボンクラな聴き手でさえそう感じるんだから、こりゃもう凄い三味線弾きになるだろうよ。改めて「末恐ろしい」ってか、「文楽の未来を託せる」芸人の一人だわな。とにかく、彼は三味線を弾くのが好きでたまらんのだろうな…。

「鑑賞教室などでもよく上演されるポピュラーな作品」は「最初から最後まで語りこめばドラマチックになる”おいしい作品”」ながら、「声に任せて節を振り回すように語ると、品が無くなるので油断できない」と津駒は言う。また寛治師匠は「マクラの『お側の衆に囃されて幼心の姫君』のところですとか、大和風を意識して、ふわぁっと音に乗っていくんです」と。「大和風」の聴きどころということだろうか。

両師が聴かせどころの一つに上げるラストの「馬子歌」は、なるほどまことに聴かせどころ、聴きどころで、どんなに涙を堪えていても、ここ聴くとやっぱりもわ~っと、涙がにじんでくる。それが血の流れた人というもんだろうと。

一方で可哀そうなハナシではあるだけに、聴く方はこの「馬子歌」に「少しでも三吉くんの未来に晴れ間がのぞくように」なんてのを願っていたりもするから、余計にじわ~っと沁み込むわけだな。そういう意味でも、よくできた浄瑠璃だと思うわ。上手いこと作ってはるなぁと感心することしきり。

なんて感激していたら、万雷の拍手の中幕が下り、隣席のご夫人から感極まった声で「よかったですねぇ!!」と話しかけられ、当方も「ハイ!!」と答えたのであった。

今回はそれぞれの幕の前に、大阪市立大学の久堀裕朗・准教授から簡単な解説があり、作品の沿革や聴きどころのポイントを聞くことができた。パンフに書かれていることをなぞるような形ではあったが、こうしてしゃべってもらえると、文字情報と共に「予習」ができるのでありがたい。

*作品のスペックや演者の発言などは、当日販売のパンフを大いに参照

(平成26年7月5日 日本橋国立文楽劇場)


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