【私家版『二流文楽論』 その8】*旧ブログ

「住大夫、倒れる」がなぜ「一流」「二流」の解釈の導入かは、今回の終盤に種明かしするとして。

 すでに拙ブログ中でも「一流」、「二流」を多用してきたが改めて、織田作之助『二流文楽論』から「二流」の定義と思われる個所を抜粋しておくと、オダサクは、何を以て二流と表現しているかは、以下の一文からうかがうことができるだろう。

 

一流文楽論とは、一流の論者が文楽が一流芸術である所以を強調するために、あるいはそれを前提として、文楽の一流芸人を語ったものである。かつて文楽について書かれた文章はすべてそれであった。(中略)しかし、私は今、これらの恵まれた人たちのかげに埋もれて、一生パッとしたところもなく、下積みの生活、縁の下の力持ちの境遇に甘んじて来た人たち、甘んじている人たち、今後も甘んじて行くであろう人たちのことをポソポソと不景気な声で語ろうと思う。いわゆる一流主義に対する二流主義、英雄主義に対する凡俗主義、それがこの二流文楽論なのである。語られる人もいわゆる二流だが、語る私も二流だ。文楽が二流芸術である所以を説明するために、あるいはそれを前提として、二流論者が二流芸人を語るあわれな二流文楽論なのだ。

(中略 自著『文楽の人』を取り上げ、当時自分は一流文楽論の信者だったため、誇張と迷信が氾濫しているが、二流文楽論の萌芽も感じられぬわけでもない)

しかし、私は文楽を二流だと主張することによって、文楽を軽蔑しようという気持ちはない。

 

 この線でいくと、現在も、世に出ている文楽や文楽人を論じたものはすべて「一流文楽論」である。たとえ書き手が「二流」であったとしても、本人は決して自らを「二流」と称しないし、著者を「二流でござい」と言う出版側もあるはずがないからだ。

オダサクは、かつて書かれてきた文楽に関する文章、すなわち文楽教の信者の先登に立った文楽研究家たちの書いた「福音書」に相対するものとして、けっして名人上手=一流を語るのではなく、その他大勢=二流を「ポソポソと不景気な声」で、文楽が二流芸術であることを示すため或いはそれを前提に、二流の自分が語ることを、あわれな『二流文楽論』だと位置付ける。しかしそのような行為は、文楽を軽蔑するものではないとの注釈付き。そして、

 

 私は毒を薄めて使うほど賢明ではないから、今はもうはっきりと言うが、文楽は二流芸術であると同時に、この国の文学もまた二流である。すべて二流だ。

 

「この国の文学もまた二流」とあるように、この先、しばらくの間は『二流文楽論』から転じた当時の文学界の「二流」の有様を論じる文が続くのである。やがてオダサクは言う。

 

  二流であることは侘しいことには違いない。芸術家にとって、自分たちの芸が二流であると自覚するほど悲しいことはない。しかし、芸術とは神への挑戦である。神がつくった自然とはべつに、第二の自然をつくろうというこの大それた仕事の才能が誰にも与えられるわけではない。作家としてのモラリッシュ・ポーズから、二流であることを隠し、殊勝な顔をしてミューズの祭壇に祈りを捧げれば、ミューズは喜ぶだろうが、しかし女神というものはつねに取り巻きに対しては冷酷なである。一流扱いをされて閉口している文楽の人たちの方が、文壇の人たちよりもはるかに正直ではあるまいか。

 

赤字にした部分に大いに同調する。文楽という芸を的確に言い表しているのではないかと思う。だからと言って、オダサク同様に小生もまた、決して文楽を二流と主張して軽蔑する気は全くない。これまでの拙ブログの文楽観劇記録を紐解いていただければ、お分かりだと思う。

と言いながら、小生がいくら頑張って「大学生の時に聴いた越路はよかったよ、玉男さんは素晴らしかったね、住師匠、最高ですね、簑助師匠の醸し出す空気が…」などと語ったところで、つまりは二流が一流の振りをしているにすぎず、「一流文楽論」にはなりえない。語り手・書き手の小生が二流なのだから、当然のことである。それなら二流は二流として、住大夫や簑助ら当代の人間国宝、すなわち一流の人たちの芸や生き様に触れながらも、一流ではない人たちを「人形遣いの●●が最近良くなっている、今日の■■大夫はへたくそだったんじゃないか? あの書き割りは幼稚すぎるね」などと語り、応援した方が、小生の「文楽論」は成立するのである。

それはまさに、以前抜粋したように、けっして文化人の肌に合うようなものでなかった人形浄瑠璃芝居が、

突然文化人の興味――というよりは畏敬の対象になったのは、スタンダールのいわゆる結晶作用が起こったためではあるまいか。ただの人形浄瑠璃芝居が「文楽」という観念のヴェールをかぶったのである。はじめに、観念があったわけだ。「文楽」というこの観念のおかげで、人形浄瑠璃芝居は美化され理想化されたのである。新興宗教が奇蹟によって信者を獲得するように、文楽は「文楽」という最上級の観念によって信者を獲得した。

ということの裏返しであり、我々如き「二流の見物人」にとっての文楽は、「畏敬の対象」というわけではないのだ。

 我々二流の見物人は、「ああ、今日も文楽見に来てよかった、浄瑠璃よかった、泣かされた、人形も舞台もきれいやった、あの三味線の子、上手になった…」などを語ったり書いたりするのがせいぜいで、そこには「美化」も「理想化」もない。「観念のヴェール」もない。人間国宝と「二流」の芸人の境もほとんどない。それらを見出す眼力もない。見ているのは「観念のヴェール」を脱ぎ去った「二流芸術」としての文楽なのである。

こんな「二流の見物人」ではあるが、もちろん、不満しか残らなかった演目もあるし、せっかくの名場面なのにこれは残念な、と思うこともたまにはある。それについては、ブログで指摘したり、劇場内のアンケートに意見を書いて来たりもする。それらは、一流から見れば的外れの劇評、批判ばかりなのだが。

 しかし、そうした批判的な行為は、通りすがりの「一見さん」にすぎない何某の市長が、突然神から啓示を受けたかのように、そしてエキセントリックに主張するような「演出や脚本の現代化」や「大衆化」など、ほとんど「相撲の呼び出しをハイレグギャルにした方が客は喜ぶだろう」的発想(彼はそんなことは言ってないが、彼の主張はその程度の中身である)によるものではなく、二流といえども二流なりに二流の人たちが織りなす芸術にうっとりし、一喜一憂しながら、文楽をもっと楽しみたい、という願望からである。興行として儲かっていようがなかろうが、それも小生に何ら関係ないことである。

 また、脚本ということで見れば、文楽の脚本のいずれもが、一流の作者の手によって、あまりにも緻密に繊細に編み上げられているのは二流見物人なりにも理解しているが、それゆえに、文楽の何もかもが「一流」扱いされてしまっている傾向がある。やはりそこは、オダサクが言うように、演じ手のほとんどが二流の芸人なわけで、問答無用ですべてを「一流扱い」されて、実は文楽の人たちも閉口しているのだと、オダサクは言いたいのだろう。

それは見る側も同様で、「文楽が好き」というだけで「一流の見巧者=一流の書き手・語り手」と思われたり、何某には「文楽を守れと言うだけのエセ文化人」などと罵倒され、閉口しているのである。文楽の見物人のほとんどが、実は小生のような「二流の見物人」なのである。

 

 そして竹本住大夫に話を戻すと、住大夫の芸は間違いなく一流である。恐らく現在わが国の古典芸能界全般においても、一流の中の一流である。それゆえに、「特権意識」の権化であるかの如く、何某の口撃の対象になってしまう。しかし、それについて住師匠は閉口しているのである。「なんも、ぜいたくしてるわけやおまへんねんで」。本音だろう。住師匠は言いたいはずだ。人間国宝・竹本住大夫もまた、「文楽という観念のヴェール」を脱げば、我々同様に「二流」の人なのである、と。残念ながら、何某の市長にはそこが全く見えていない。いや、あえて見ようとしていないのか。

要するに、何某にとっては人間国宝は、「文楽という観念のヴェール」を被った「一流の人」でないと、「特権意識にまみれた恐ろしい集団」と非難できなくて困るのだ。そして文楽が「文化人の畏敬の対象」でなければ、今まで散々言ってきたことが全て水泡と化すのである。一見しただけで、あとはブレーンからの調査報告(そのブレーンも一見さんである)だけを頼りにあれこれ語りだして、実際のところ本人が泥沼にはまり込んであえいでいるという感じさえする。実は引き返しつかなくなった哀れな状況なのである。

 

*追記

7月24日夕刻、何某の市長は、26日にも文楽劇場で公演中の『曾根崎心中』を観劇することを明らかにした。「協会や技芸員の間で、今の問題点についてもしっかり話し合いをしようという芽が出てきた」のがきっかけであるとし、さらに「技芸員の皆さんが大阪駅へ人形を持ってPRに出かけられた。メディアもたくさん報じており、そういう流れも踏まえて見に行こうと」と付け加えた。観劇後、技芸員とも非公開で話し合いをしたいと語るも、補助金問題については、「話はさせてもらうが、オープン(の場での協議)ですよと、いうところは変わっていない。後は先方さんがどう判断されるか」と。記者からの「市長の側から歩み寄ったということか」の問いには、「こんなの意地張ってもしょうがないですから」。その上で、「僕は市民の代表ですから、別に王様でも何でもない。僕と話をする場合にはこっちに来い、なんて言えるような立場ではないから。膠着していれば、僕から行くこともある」と語る。

 まあ、なんでもいい。とにかく「会え」だ。それと何某はまずもって、これまでの技芸員や文楽の芸に対する非礼・侮辱の数々について、詫びを入れてほしいと切に願う。「非公開」ならできるだろ?

<第8章 おわり>


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