【私家版『二流文楽論』 その7】*旧ブログ

さて、誰も期待していない「私家版『二流文楽論』」を久々に。

「一流」「二流」の定義するところを解釈するという課題を残したままだった。

 

 その前に、旧聞に属する話ではあるが、竹本住大夫師匠が712日、軽い脳梗塞の症状を呈し、2~3週間の入院が必要となった。これにより21日から始まっている「夏休み特別公演」における伊勢音頭恋寝刃』の「古市油屋の段」は文字久大夫が代わりを務めている。

 文楽好きからすれば、「何某の市長の度重なる口撃で心労が重なったのだろう、住師匠、お気の毒に。そして何某は人の命を危ぶませてまでも、文楽補助金カットに執着する冷酷な人間だ」ということになるのだろう。その点、何某の市長も「あれ、オレ、ちょっとやりすぎたの?」とでも思ったかどうかは判らねど、「心からお見舞い申し上げます。文楽協会の一件で、心身ともに多大なご負担をおかけしたことも要因になったのではないかと案じております」等としおらしいコメントを発しているのが珍妙である。

 だが、今回このタイミングで住大夫が倒れたことについて、「心身に多大なご負担をおかけした」と反省すべきは、何某の市長では決してなく、文楽協会であり技芸員たちであり、そしてマスコミである。

 住師匠は相当な気苦労をされていたというのは、容易に察することができるし、それが本当の原因で倒れられたとすれば、実にお気の毒な限りである。何よりも、舞台を休まざるを得なくなったことに、ご本人は多大なショックを受けておいでと思われる。舞台をこの上もなく大事にされてきた方だけに、その無念さは人一倍であろう。

 ただ、住師匠も87歳である。毎日、舞台に上がり、小生が「命を削る芸」と思ってやまない浄瑠璃を、それも「切場」という物語のクライマックスを長時間語り、舞台を下りれば後進の指導に余念なく、さらに昨今は例の一件でマスコミは兎にも角にも、住師匠に談話を求めにやって来る。同い年の方で、師匠同様ここまでの精力的な(或いは殺人的な)日課をこなせる人がどれだけいるだろうか。ここに至って、住師匠はもはや「奇蹟」なのである。

 そもそも、文楽の人たちは、この「奇蹟」の人を一体いつまで「一線」の技芸員として、文楽の「スポークスマン、論客」として祭りたてておくつもりなのか。もちろん、住師匠にはいつまでも「一線」で活躍してもらいたいのだが、それはあくまで芸人「竹本住大夫」としての話である。「一線の指導者」という点ならば、公演における浄瑠璃語りそのものが何にも代えがたい「指導」なのであろうから、もうこれ以上、舞台の上以外での負担をかけてはならないと思うのである。それでも師匠の人柄からして、黙ってられることはないと思うが、どこかでこの現状に歯止めをかけねばならないのは、言うまでもないだろう。マスコミも高齢の住師匠をもっともっと大事にせねばならない。配慮があまりにも足らなかったのではないか。

 もちろん、技芸員も協会も劇場も、十二分に承知はしていることと思うが、それでもどこかに住師匠への「甘え」があったと指摘されても、反論できるものでもないだろう。

 聞けば、三味線の人間国宝・鶴澤清治師匠が「技芸員代表としては公開でお会いできないが、私個人としては市長に直接手紙を書き、公開の場で会っていただくつもり」と発言しているという20127111044分配信「YOMIURI ONLINE」)。

「代表でなく個人として」。そう言わざるを得ない事情はよく理解してはいるが、すでに、それにこだわり、ミーティングを引き延ばしてしまう状況は、とうの昔にすぎ去っていると思うのだが。住師匠よりも一世代若い清治師であるが、清治師が発言するのであれば、技芸員のだれも異論はないと思うが、それでも「個人として」なのか…。そうはいかないのもまた、芸の世界か。―これは文楽だけのことではないのだろうけど…。現状を思うと、実に歯がゆい限りなのである。

 

 「住大夫、倒れる」に関するあれこれ思うところを「一流」「二流」解釈の導入として、次回は、その解釈に入ってゆくとする。

<第7章 おわり>


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