【私家版『二流文楽論』 その4】*旧ブログ

なんだかもう、最初は「何某の挑発に乗らず、粛々と文楽の公演や芸の伝承を続けてゆけばよい」などと言っていたのに、前回は「今すぐミーティングせよ」と言ったり、支離滅裂になってきた。小生もまた、何某の市長の発言にその都度翻弄されているアホな大阪市民の一人であるとつくづく思う。

 

 ところで、かかる文楽の状況を見て、季刊誌『上方芸能』が大々的な「文楽応援特集」を組んだ(184号/2012年6月)。その名も「特集 文楽を守れ!」。文楽座一同の声明文に上方をベースに活動する古典芸能の人間国宝6師の賛同署名、ドナルド・キーン氏を筆頭に多士済々132名の「応援メッセージ」から「市長への一言」など、上方芸能と名乗る雑誌ならではの「文楽擁護」や「文楽愛」あふれる内容となっているのは、いたしかたない。だが、一方で、この特集にはかなりがっかりした。いや、はっきり言って、失望した。

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 今回公開された何某の市長と「文化助成のありかた検討会議」メンバーとのメールのやり取りの中でも「噴飯もの」と酷評されているほどである。要するに、前述のように132名の発言の多くが「こんなすばらしい文楽に対する補助費削減は絶対にあきまへん!」的な訴えが大半で、辟易するのである。中には「(発行人の)木津川センセに頼まれたから、とりあえず当たり障りないとこで原稿まとめました」という人もあるかもしれないし。

とりわけ、この特集に何某の市長が登場していないのにはこの上もなく落胆し、この雑誌の限界を感じた。文楽愛あふれる側からすれば、あれだけ事実無根の誹謗中傷を文楽に浴びせた人物を「文楽応援特集」に登場させるわけにはいかないという論があるのかもしれないが、それでは特集を組んだ意味が無いんじゃないか?。だからこそ、何某の考え方を余すことなく誌上で語ってもらう必要があったのではないか。なぜ発行人の木津川計氏は自らと「市長との徹底討論」を企画しなかったのか。見る限りでは、引っ張り出す努力をした形跡も見当たらない。せめて声をかけるだけでもしてほしかった。

ドナルド・キーン氏が、日本文化を愛する学者としての対場から文楽応援のメッセージを寄稿したところで、キーン先生には申し訳ないが、世の中に何のアピールもできないのだ。一部の報道がキーン先生の誌面でのメッセージを紹介したが、それとて一般の新聞読者やテレビの視聴者には「専門家による文楽愛みなぎる発言」にしかすぎず、ましてや何某の市長を動かせるきっかけにすらならないのだ。

 

こうした「内輪」の132人による「文楽っていいよね」「それを理解できない何某の市長ってどうかしてるよね」では、「噴飯もの」と言われて当然である。しかし、そんな噴飯もののメッセージの中には、文楽や文楽協会への辛辣な発言や暴論すれすれのもの(愛あればこそ、文楽を理解していればこそ)もあり、そういう内容を見ると、小生が如き「二流の見物人」ですら、「うん!そうなんだ!、そこなんだ!」と思わず膝を叩くのだから、文楽が抱える問題や課題と言うのは、何某に言われるまでもなく、常日頃から文楽に接している人たち、文楽を愛する人たち共通の思いなのであろう。

 

たとえば、演出家で元国立文楽劇場理事の山田庄一氏の一文は、今回の「補助金騒動」の原因や文楽の現状を非常に分かりやすく「解説」しているような内容であるとともに辛辣なものである。何某のサイドもこの特集をただ「噴飯もの」と切り捨てるのではなく、こういう提言をしている人にヒアリングするのもよいだろう。ぜひそうしてもらいたい。

氏によれば、「大阪府・市が文楽に無関心なのは、何も今に始まったことではない」と言う。財界も同様。それは氏が文楽劇場にいた当時から、「知事も市長もほとんど文楽を見に来なかったのを見ても明白だ」ということだ。

すでに文楽協会の存在をどうするかについて、文楽劇場開場のころ(昭和59年)には論議があったというのだ。そしていま、何某が問題視する補助金の受け皿」としての存続がとりあえず決まったということだが、残念ながらそれ以降、この論議が本格化することなく30年近くが経過し、今まさにその存在価値が問われている。課題を先送りしすぎたことが、補助金の問題を混迷させてしまっている。氏は提案として、協会の存続を「もう一度考えてみるのもいいと思う」とし、補助金がなくなるのを前提として、そうなると世界遺産に登録されているのだから「国(文化庁)としても何か手を打たねばならぬだろうし、互助組織である“文楽座”を利用する手もあろう」とも提言する。

一方で、文楽界の現状を厳しく指摘もする。「世界遺産と誇るには、文楽の現状はいささか問題がある。私自身、今年になって文楽に足が向かないようになったのだ。とくに若手=三十代前後に希望の持てる人材が皆無に近いのは寂しい限りである」

 

文楽愛好家はとかく「文楽はよいもの」という先入観で盲目的に物事を語るから、一方的に何某の市長を悪人に仕立て上げ、現状の問題の検証を忘れがちである。これについては小生も、今回、このブログをシリーズで立ててみて、痛感し反省もする点である。しかしながら、小生のような愛好家の最下層に属する「二流見物人」には、なかなかそこまで舞台を観察できない。こういう厳しい指摘はそういう意味ではありがたい。次に見るときの参考になるのである。

 

 ならばこそ、『上方芸能』には、「文楽はエエもんでっせ論」を集めて掲載することに終始するのでなく、同じ「上方芸能」である大フィルや市音にまで論を拡大し、問題と課題を徹底的に追及、論議してもらいたいのである。それでこそ『上方芸能』の名が光るのである。今号のような大特集でなくとも、「大阪市長の文化行政を監視する」くらいのタイトルを掲げた検証モノの枠をこしらえて、毎号、その施策に対する監視と検証、時には積極的な提言を継続するべきである。必要があれば、その都度、何某或いはそれに代わる人物に登場してもらえばいいのである。何某に「文楽を守れと声を上げるエセ文化人」などと言わせないためにも、『上方芸能』は論を張って争うべきである。メッセージを並べるだけならば、中学生の自由研究でもできるのである。『上方芸能』にはそこから先を読者は期待しているはずだ。予算を削られる側のスポークスマンとなりえないものか。

 

 この雑誌も創刊以来40数年を数えるが、ここ数年は部数の伸び悩みや広告収入の減少で台所事情は非常に厳しく、読者から広く「賛助広告」を募ってなんとか発行にこぎつけているのが実情である。紙媒体の世界を覆い尽くす経済的な悪条件もさることながら、このような「努力不足」もまた、この雑誌の慢性的な「伸び悩み」を助長しているのは明らかだ。本来なら、上方の芸能文化のオピニオンリーダーでありスポークスマンたりえるべき存在の雑誌がこの状況である。「大阪の文化が死に、不毛となっている」象徴とも言えるだろう。ほぼ定期的に購読して20年を過ぎるが、号を追うごとにその「がっかり感」や「失望感」は強くなる一方である…。

<第4章 おわり>


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