「ノスタルジア南海ホークス番外編」の第3弾はライオンズ。
以前にもお断りしたように、ライオンズについては、1968年から78年の九州時代までとします。西武に移譲後のライオンズは九州のライオンズとは全く別個の球団という認識であることと、何よりも、西武球団もこの企画に入れてしまうと、「ノスタルジア西武ライオンズ」になってしまうのが目に見えているためです。ただし、この考えは、南海ファンである小生の所見であり、ライオンズファンの方には異論も多いにあると思いますが、そこは一南海ファンのブログ上での遊びということで、何卒ご理解をお願いします。
それで…。いざ、68年から78年に限定してやってみたら、悲しいほどに戦力が薄い…。いわゆる「黒い霧事件」があり、西鉄~太平洋クラブ~クラウンライターと球団が変遷してゆく中、チーム編成もままならなかったのが手に取るようにわかりました。
<先発オーダー>( )内は控え
1 三 ドン・ビュフォード(菊川昭二郎)
2 二 基満男(吉岡悟)
3 指 フランク・ハワード(大田卓司)
4 左 土井正博(阿部良男)
5 中 ウィリー・デービス(高橋二三夫)
6 一 竹之内雅史(鈴木治彦)
7 右 東田正義(マティ・アルー)
8 捕 片岡新之介(若菜嘉晴)
9 遊 梅田邦三(真弓明信)
控え選手のリストアップはサンプル数が他球団より10年分少ないので、各1名ずつで。
先頭打者は「1番、サード、ビュフォード」ってのがよく覚えているので。南海に移籍してさっぱりでしたが、このチームにあっては、すごく光っていたと思います。九州のライオンズ終末期において、最も印象深い助っ人ではないかと。
別の意味で印象深い助っ人は、ハワードでしょう。指名打者にしたのは、どうしても見てみたかったという「夢」です。ご存知の通り、来日したのはいいけれど、どうにもならない膝の故障が発覚し、3打席のみで帰国したのは非常に残念。新外国人選手のメディカルチェックが杜撰というか、気が回ってなかったというか、この時代ならではの「悲劇」でありましょう。そういう意味でも、せめてこの試みの上だけでも現役超大物メジャーリーガーの実力を存分に発揮してもらいましょう。
土井は本来なら近鉄の4番に据えたいところでしたが、この手薄な戦力に免じて、ライオンズの4番に座ってもらいました。デービスは問題児だけど、なにせ人材が…。
竹之内、東田がこの打順にいるのが強力だし、なんかほっとしますな、「おお、太平洋の打線や!」って感じです。この二人は打順が繋がってなくちゃ落ち着きませんね(笑)。若菜と真弓が本格的に頭角を現すのは、九州最後の2年間だったし、どうしてもその後の活躍の方が華々しいので…。本当はライオンズの若菜、真弓としてラインナップしたかったんだけど、基がいて、竹之内、東田がいてとなるとねぇ。
<代打専科> 鈴木治彦(葉留彦)
鈴木がこの時代に代打の切り札だったかと言えば、そういうわけでもなかったと記憶していますが、じゃあ誰だと言われると返答に困るしねぇ…。誰かいましたっけ?
<代走専科> 楠城徹
楠城って、実は足早いんですよね。と言いつつ、代走で出てきたという記憶はあるようなないような…。たとえば南海の阪田とか近鉄の藤瀬のような存在がいなかったと思いますが、どうでしょうか?
<先発投手(15勝以上経験者)>
池永正明-右 昭和43年・23勝、44年・18勝
東尾修-右 昭和47年・18勝、48年・15勝、50年・23勝7S・最多勝利・最多奪三振、53年・23勝1S
加藤初-右 昭和47年・17勝・新人王
これまで試みた3球団(南海、阪急、ロッテ)より10年分サンプル数が少ないとはいえ、これは寂しすぎる…。
池永は一件が無ければ、間違いなく200勝以上の勝星に至っていただろう…。残念なことに終わってしまったけど、この試みでは、ハワードがDHであるように、そういうのは計算に入れず、池永にはライオンズの投の主軸として、活躍を大いに期待。ただ、現実はこの時代は東尾がまさに「孤軍奮投」。
余談ながら。小生が「八百長」という言葉と意味を知ったのが残念なことに例の事件でした。
<先発投手(10勝以上経験者)>
河原明-右 昭和44年・12勝、45年・13勝
高橋明-右 昭和46年・14勝
石井茂雄-右 昭和48年・12勝
木原義隆-右 昭和50年・10勝
古賀正明-右 昭和51年・11勝1S
山下律夫-右 昭和52年・12勝5S
先発主軸が3人で廻さねばならない以上、このクラスの投手陣には踏ん張ってもらわねばなりません。移籍して来てその年だけ活躍した投手も何人かいますが、そうやってつないでいくしかありませんねえ…。木原、古賀、山下の奮闘ぶりが印象的でした。
<中継ぎ(中継ぎ登板20試合以上経験者)>
中井悦雄-右 昭和45年
田中章-右 昭和46年、48年
永射保-左 昭和51年
五月女豊-右 昭和53年
小生の記憶でライオンズの中継ぎと言えば、田中章と永射保が浮かびます。中井という人は記憶が無いし、五月女は阪神のイメージが強いしねぇ。田中は当時、ライオンズの投手と言えば、東尾か加藤か田中かってくらい、ホントよく投げてた記憶があります。永射は西武になってから、より一層、左の貴重なワンポイントとして活躍しましたね。今のホークスの森福のような存在ですね。
<抑え(完了試合40以上経験者)>
該当者なし
<抑え(完了試合30以上経験者)>
田中章-右 昭和47年、49年
<抑え(完了試合20以上経験者)>
稲尾和久-右 昭和43年
東尾修-右 昭和50年
永射保-左 昭和52年
抑えもまた、田中章が大車輪の活躍です。
昭和50年に最多勝を上げた東尾が同じ年に、「抑えのエース」としても奮闘していたのが印象的です。このころの東尾は平気で50試合くらい登板してました。よって「来る日も来る日も東尾が投げてる」というイメージがあります。
東尾は昭和47年に先発41、中継ぎ5、完了9で55試合に登板、50年には先発31、完了23で54試合に登板。同じ昭和50年、阪急・山田が31試合、南海・山内新一が29試合、ロッテ・成田が31試合、近鉄・鈴木33試合、日本ハム・高橋直樹35試合ですから、他球団のエース級と比してもいかに登板数が多かったか。また、時代が違いすぎて単純な数字での比較は厳禁とは言え、昨シーズンのライオンズでは、涌井と帆足がそれぞれ先発率100%で26試合登板ですから、いかに東尾がチームを一身に背負っていたかがわかります。
小生は、西鉄ライオンズの終焉間近のほんの数年と、太平洋クラブ、クラウンライターと、低迷を続けた九州のライオンズしか知りません。しかし、大阪球場のライオンズ戦は観客動員も良好で、とくに3塁側のライオンズファンの方が活気があったようなことを覚えています。かつての黄金カードだった「南海vs西鉄」の余韻が残っていたのか、大阪には九州出身者が多いからなのか、理由はわかりません。日曜日の「ダブルヘッダー」もライオンズ戦が多かったような記憶があります。
そして「野球パジャマ」でも人気の高かった赤やワインレッドの太平洋のユニフォームは、けっこうかっこよく感じたものです。西武球団になってから、あの独特のライオンズ戦の空気が急速に薄れていったのを寂しく感じました。
さて、このライオンズ編。まさにこの時期に在籍していた若菜さん。Twitterでたま~~にからんでもらってますが、もし見られていたら、なんかご意見、異論をもらえたらうれしいなぁ…。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
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