なんかアクセス数が急に増えてびっくりです。みなさん、南海ホークスお好きですか?
そして前回の続きです。
そう言えば、今年のソフトバンクホークスの「鷹の祭典」の限定ユニフォームが、緑に決まりましたね。まあ、緑と言っても南海の緑とは違った趣だし、大した感慨もないのですがね。
緑ならなんでもいいってわけでもない(笑)
この時代のグレー地に濃緑で「NANKAI」って入ってるビジターユニが一番好きだな。
バッターはもちろん、19番のおっちゃん
(昭和47年西宮球場)
では、勝手に組んだオーダーの思い出なんかをつらつらと。
1 中 広瀬叔功
小生が頻繁に大阪球場へ通うようになった昭和40年代後半ごろには、すでにセンターは島野がレギュラーで、その島野も50年代に入ると新井の台頭で江本共々阪神へ…。ってな時代でしたから、広瀬の出番は激減していましたが、代打で広瀬が登場した時の大阪球場にはそれなりの高揚感がありました。昨シーズンで引退した柴原が登場する時と似たような感じ。昭和50年には野村の600号本塁打と広瀬の600盗塁の到達日を当てる「600ダブルクイズ」なんてのを球団で大々的にやってましたけど、広瀬の通算盗塁は596で終わり。そしてなんとも不遇の監督時代に突入するわけです。
2 二 桜井輝秀
とにかく好きでしたね。野村のおっちゃんには、結構横柄な態度でサインをせがんでましたが、桜井の前に立つと、足は震えるし心臓はドキドキするし、もう直立不動で身動きが取れないほどでした。決して「よく打つ打者」ではありませんでしたが、「無駄死に」も少ないし、何と言っても守備はピカイチで、ゴールデングラブ賞も2回受賞してます。活躍期間が野村監督時代とほぼ重なっていることで、最も印象に残っている二塁手であり二番バッターです。
3 指 門田博光
アキレス腱切断以降、ホームランバッターとして名を馳せますが、小生が子供の頃の門田は「アベレージヒッター」でした。「でした」と言うよりも、「演じてました」と言う方が正確かもしれません(笑)。本人から直接聞きましたし、本でも書いてはる通り、野村監督から「ホームランは4番である自分(野村)に任せて、とにかくお前は塁に出ろ」という指示があったからですが、もし野村監督がそんなこと言わずに、自由に打たせていたら、多分、通算本塁打数は門田が野村を上回っていたんじゃ…。これだけの大打者を、昭和45年のルーキーイヤーから南海終焉の平成5年まで見続けることができたのは、実に幸せなことです。
4 捕 野村克也
いろいろありましたが、小生にとっては「南海ホークス=野村克也」です。多分、このおっさんが南海にいなければ、南海ファンになってなかったんじゃないでしょうか。野村が追放されると決まった時、南海ファン辞めようかと真剣に悩んだほどです。では、なんで野村が好きなのかと聞かれると、実はよくわかりません(笑)。でもなんというか、南海電鉄グループすべてを象徴しているような気がしてならんのですよ。今後も野村が南海グループやホークスと関わることはないと思います。残念ですが、そういう運命もまたアリでしょう。小生もいつの間にか「古手の南海ファン」になってしまっていて、そういう意味で、野村のホームランを何本も見たということが、自慢でもあります(笑)。
5 一 クラレンス・ジョーンズ
小生にとって南海の外国人選手ベスト3は、ジョーンズ、メイ、バナザードです。特にジョーンズは印象深いですね。はっきり言って「ホームランか三振か」の打者です。そして近鉄へ移籍していきなりホームランキングですから…。でも、野村がぼちぼち量産できなくなってきていた時期にコンスタントに30本以上打ってたので、目立ってましたね、黒いし背も高かったし。
6 左 カルロス・メイ
野村追放後、泥沼の低迷期に陥ってしまった南海にあって、メイの存在は大きかったですよね。兵役中の事故により右手親指の第一関節から先を欠損するという障害を持ちながら、3割をキープしていたし本塁打も20本以上という、当時の南海においては神様のような存在でした。故障さえなければ、もう2~3年は南海でプレーできていたでしょう。それが残念です。この打順では6番に入ってますが、4番でも十分、ちからを発揮できる打者です。
7 三 国貞泰汎
南海時代よりも広島時代の方が印象がありますね。でも、なぜ藤原や富田を押さえて国貞かというと、なんて言うかインパクトの差でしょうかね。小生が野村くらいしか知らないような幼い時期でも、国貞は強烈な印象があります。で、何がどう印象に残ったのかなんて7歳くらいの子にはわかりません(笑)。しいて言えば、近所に「くにざわくん」という子がいたから、覚えやすかったのかもしれません(笑)。古き南海の匂いが強い選手ですよね。晩年、太平洋クラブにいましたが、「お~い、帰ってけぇへんのか~」ってヤジが飛んでました。
8 右 新井宏昌
新井が8番なんて贅沢な打線です。でも、広瀬を1番にして上記のメンバーであるならば、もう、ここに入ってもらうしかありません。新井が昭和50年後期シーズンから一気に台頭してきて、あっという間にレギュラーに。うわぁ、すごい選手やなって思いましたよ。低迷期の南海で寡黙に打ち込む姿が印象的です。後に不可解なトレードで近鉄へ行っちゃって、あれはショックでしたね…。
9 遊 小池兼司
もう小生が知る小池は、レギュラーでもなく、ショートは佐野で確立してましたが、「南海の1番バッターは広瀬でなければならぬ」の公式に当てはめるなら、「ショートも小池でなければならぬ」わけですよ。まあ佐野は東映から移籍してきた人だし。定岡では小池の守備には到底及ばないし、あの久保寺でもまだカオじゃないし、ってとこですね。湯上谷?ノーコメント(笑)。
と、まあこんな感じです。結局、国貞、メイ以外は野村監督時代に在籍していた選手になってしまいました。その国貞とて、野村とともにプレーしてますしね。
1968年~1988年のうち、68年が鶴岡監督、69年が飯田監督、70~77年が野村監督、その後は広瀬、ブレイザー、穴吹、杉浦と監督が次々と変わっていった次第で、野村監督時代を一番長く見ているから、仕方ないですね。そして野村監督時代以降、優勝はおろかAクラス入りすら一度もないんですからね…。
小生は、幼少時代のそれなりに強い南海と、青春時代の徹底的に弱い南海の両方を見てきたわけです。こんな具合だから、非常にひねくれた野球観を植えつけられてしまいました。
そうだ、代打・代走についても触れておかねば。
<代打専科> 青野修三 高柳秀樹
<代走専科> 阪田隆 堀井和人 山口裕二
代打も代走も上記の控え選手で十分すぎるくらいまかなえるのですが、そこはやっぱり「ここぞ」というときの「職人ワザ」も見たいというもの。
代打の青野については、ある意味「へなちょこ」ですが、なんとなく風情があった選手です。こういうおっさんは、凡退してもかまいませんので、たまにフラ~っと代打に出てきて、阪急応援団長のヤジのネタになるような、なんかおもろいことをやってくれれば、いいんです。高柳は「左殺しのヒデキ!」で、これは欠かせないでしょう。
代走は魅力的な3人。
幼いころ、代走阪田のホームスチールでサヨナラ勝ちなんてがめついとうか、ショボイというか、いかにも南海、という勝ち試合を見たことがありまして(笑)。「南海嫌い」の父は帰りの地下鉄の中で散々「しょ~もない試合」とぼやき、帰宅後は風呂屋で番台のおっちゃんに「南海はしょ~もないわ」とこれまたぼやくという始末(笑)。とことんこの人は南海が嫌いなんだなぁ~と感心しましたね(笑)。
で、肝心の足の速さでは、阪田よりも堀井、山口がいい勝負でしょう。山口は打撃がよければ、広瀬ばりの活躍ができたろうに…。今はえらい肥えてしまってますが(笑)。
次回は投手編です。まあ、程々にご期待を。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。