【ノスタルジア南海ホークス3】*旧ブログ

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野手はもっぱら自分の記憶や印象、好き嫌いで選びましたが、投手はそれなりに数字を見ました。とはいえ、こまかいところまで分析したわけでなく、単純に勝星など、最初に眼に見える部分で選んだだけです。
<先発(15勝以上経験者)>
皆川睦男-右 昭和43年-31勝(最多勝)
村上雅則-左 昭和43年-18勝
江本孟紀-右 昭和47年-16勝
山内新一-右 昭和48年-20勝、51年-20勝
藤田学-右 昭和52年-16勝、53年-16勝
山内和宏-右 昭和58年-18勝(最多勝)
山内孝徳-右 昭和59年-16勝
藤本修二-右 昭和62年-15勝

1734160ウチの近所に住んではった皆川投手

順当にその時代の「エース」が並んだというところでしょうか。
皆川睦男の31勝は別格として、山内新一の20勝(2回)は、時期的にどうしても山田、鈴木、東尾らの影に隠れてしまいますが、これは立派な数字であります。野村南海後半のエースでしょう。もっとも佐藤道郎も入団早々昭和45年に18勝上げていますが、この方には専門のリリーフに回っていただきました。
また、藤田学の2年連続16勝も頼もしかったし、山内和宏の18勝で最多勝獲得も長期低迷期にあった南海としては、うれしい受賞でした。山内孝徳と二人、この時期の南海投手陣を支えていました。打線がもっと奮起していれば、さらに勝利数を重ねることができていたはず。なによりも負け数がそれを物語っています。それは藤本修二も同様です。

この8人が順当に勝星を稼げば、この想像上のホークスは向かうところ敵なしです。ひとつ難を言えば、左がマッシーしかいないということ。そのマッシーも先発、中継ぎ、抑えと、どのポジションもチーム事情や自身の調子に合わせてこなしていましたが、日本ハム移籍後はともかく、南海時代は登板試合数の半数以上を先発が占めていたことで、先発陣に入ってもらったという次第。
こうした左の先発の手薄さが、このチームが終焉を迎えるまでの最大の課題であり難点でありました。そこをリードで補う野村がいた間、すなわち70年代半ばまではそれでもいい時代ではあったのですが、肝心の野村が抜けてからは、それこそ近鉄応援団にヤジられたように「だ~れが投げてもいっしょ~!」状態でした。

このメンツで小生が特に印象に残っているのは、江本です。当時の野球選手としては格別にカッコよかったですね。子供心に、ロン毛で足が長い(今からすれば普通だが)プロ野球選手なんて、すごく憧れましたよ。テレビに出てくるとすごくお洒落だったし。ついには野村監督から「長髪禁止令」が出るんですけど(笑)。昭和49年から登場した明るいグリーンのビジター用ユニフォームが一番似合う選手でした。

1734164昭和49年開幕戦、すなわち南海ホークス最後の開幕主催試合で力投するエモやん。
このアンダーシャツの色は不評ですぐに緑になった(笑)

<準先発(10勝経験者)>
三浦清弘-右 昭和44年-12勝、46年-13勝
西岡三四郎-右 昭和44年-10勝、45年-10勝、46年-12勝、47年-11勝、48年-12勝
中山孝一-右 昭和50年-10勝、51年-12勝
松原明夫-右 昭和50年-11勝
西川佳明-左 昭和61年-10勝1S

いわゆる「ローテーションの谷間」「裏ローテ」という人たちになりますかね。と言っても、先発の柱にいても不思議ではない顔ぶれです。
特に西岡三四郎は昭和40年代中期のエース的存在で開幕投手も務めてました。「三四郎」というかっこいい名前で、子供のファンが多かったように記憶しています。「さよなら大阪球場」という取り壊し直前のイベントで久々に姿を見て、なんかウルウルしてしまいました。
三浦清弘もこの期間(1968~1988)の前には15勝を上げた年もあるし、まあ無難に2ケタ勝利する投手だったわけですから、ローテーションの一角にいても不思議ではありません。
中山孝一は結局、故障に泣かされてしまいました。でなければ、しばらくの間は二桁勝利をキープできていたと思います。若干変則フォームだったような記憶があります。それが故障の遠因になったのかな…。
松原明夫は金城とのトレードで広島へ行ってから、15勝投手になりましたね。そのときはもう松原でなく福士って名乗ってましたが。このトレードはお互いに実りのあったいいトレードだったんじゃないでしょうか。

さて、このメンツがローテの谷間の役目をきちんと果たせば、机上の計算では100勝越えが軽くできるわけですが、まあ、そうはいきませんわな(笑)。先発陣のところで言いました左の柱の不在については、1986年の西川の登場まで待たねばならなかったわけですから、これは相当深刻です。野村監督時代でさえも、Aクラスをキープするものの、阪急との差が開いていく一方だった原因の一つでしょう。
なぜ20年間も左の先発投手に恵まれなかったのでしょうか?
野村が嫌ったのか? その割には江夏を獲得して最初は先発として使ってますし。時代が要請していなかった?いや~、そんなわけないでしょう。これは「南海七不思議」のひとつかもしれません。あとの六つ? わかりません(笑)。

ちなみに1968年~1988年の開幕投手は以下の通り。
68 皆川睦男(1回)
69 泉嘉郎(1回)
70~72 西岡三四郎(3回)
73~75 江本孟紀(3回)
76~78、80~82 山内新一(6回)
79 藤田学(1回)
83、85~87 山内孝徳(4回)
84 山内和宏(1回)
88 西川佳明(1回)

泉って人はまったく知りませんなあ…。
こうしてみると、西岡、江本、山内新、山内孝が各時代の南海投手陣の柱だったということですかね…、そういうわけでもないか(笑)。江本以外は必死こいて投げてた印象(笑)。

またもや長くなってしまったので、中継ぎ、抑え、敗戦処理については、次回にいたしましょう。
*皆川睦男:~1969 *睦雄:1970~


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