【返還10周年】思い出話(5) *旧ブログ

旧正月休みも終わり、21日から出社しておりますが、まだローカルスタッフは休んでますし、街もまだまだ浮かれ状態で、まったく仕事する気が起きません。ってーか、おめーら、クリスマスからこっち、ずーーーーっと休みモードやんけ!!
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写真は正月三が日が明けてもまだ正月ムードの銅鑼湾(Causeway Bay)そごう前
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さて、ブログの方は通常モードに戻してゆきましょう。
返還10年思い出話。今回も当時発行されていた『月刊香港通信』からピックアップ。

【1997年2月21日】
◇約9千人の市民が鄧小平氏の死を悼み新華社へ。中共側との断絶が続く民主党も副党首・楊森氏らが弔問。「新華社訪問は純粋な哀悼の意であり、中央との関係改善を目論んでいるのではない」

【2月22日】
◇返還後の暫定議会「臨時立法会」、深圳で全体会議

【2月23日】
◇1996年実施の第1回立法会選挙について、特区準備委の立法会小委員会が「全人代によって、特区準備委が選出方法を決定するように認められており、行政長官や臨時立法会は修正する権利を持たない」と発表
◇返還後に司法官に就任する梁愛詩(エルシー・リョン)女史が「返還後に『打倒李鵬』と叫ぶのは、現在『打倒女王』と叫ぶのと同じだから違法ヨ!」との見解発表

【2月24日】
◇梁愛詩氏、前日の「打倒~」発言を訂正。「違法かどうかは返還後の特区政府が決めることヨ!」
◇まだまだ続く鄧小平氏弔問。この日だけで1万9千人が新華社へ。5日間で延べ4万5千人が弔問

いや~、すごかったのなんの、弔問客の数。当時の勤務先は新華社への通り道で、花屋は忙しく行き交い、弔問客はぞろぞろと新華社を目指す…。香港中の花が新華社へかき集められたと言っても過言じゃないくらいでした。
一般市民にも弔問の門戸が開かれていましたので、幼稚園児から老人団体まで、実に様々な面子が弔問に訪れていました。ただ、なんと言うか、一種の「ブーム」みたいなもんで「とにかく行っとけ!」みたいなノリだったのは言うまでもありません。そこは香港人ですから…。
小生も「謎の館」新華社へ入り込むチャンスだったのですが、すごい行列だったもんで、新華社へ足を踏み入れることはかないませんでした。今から思うと行っておけばよかったかも、とちょいと悔やんでます。

注目は梁愛詩(エルシー・リョン)女史の発言。結局、これがこのオバサンの印象を決定付けてしまったようで、定年で退官するまで「不人気No.1」の大臣の座をキープし続けたのでした。
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COMMENT:
AUTHOR: 丸山光三
DATE: 02/22/2007 07:53:47
銅鑼湾(Causeway Bay)そごう?
まだ存在するのですか?
しかし、もうかなり古ぼけてるでしょうね?
あのあたりは、80年代末(あたしの最後の香港訪問)には、まあオシャレ(九龍と比較してですが)な地域だったのですが、いまはどうなんでしょうか?
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COMMENT:
AUTHOR: leslieyoshi
DATE: 02/22/2007 11:07:19
To マルコおいちゃんさん
そごうはしっかり存在してますよ。昔はミニバスの行き先は「大丸」ってなってましたが、いまは「崇高」ですからね。日本食売り場も充実していて、助かってます。93年に増床してそれ以前の2倍の売り場面積となりました。もっとも今では100%現地資本ですがね。
銅鑼湾は、まあ今でもおしゃれなエリアなんでしょうけど、土地が高すぎて、どこも長続きしませんね。その点そごうは自社ビルなんで、「一人勝ち」の様相。そごうの対面の三越も昨秋閉店しましたし。同じビルに入っていた日本人倶楽部はビクトリアパーク寄りに移転しました。


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