(photo AC)
『善人長屋』というシリーズが大変気にっている。「善人」とあるものの、差配を筆頭に裏稼業を持つ悪党ばかりが住む長屋に、正真正銘の善人が越してきて、善人であるがゆえに様々な厄介事を長屋に持ち込んでくる。その度に長屋の連中がうんざりしながらも「裏稼業」で解決していくという物語である。これまでにシリーズ三作が出ており、続刊はないのかと待ちわびているところである。一作目に出てくる「悪いことは良くない。しごく真っ当な建前だが、それを振りかざせば、すべてがすっきり片付くというわけではない。この世はもっと混沌としていて、善悪の区別もまた、まっすぐな一本線で分けられるものではなく、ちょうど溶け合った蠟のように判別の付きにくいものだ」という言葉がとても気に入っている。シリーズに共通のポリシーのようなものだ。
この『善人長屋』シリーズの作者が西條奈加。『心淋し川』で直木賞受賞と聞いて嬉しく思った。で、毎度のことながら、その時に単行本を買えばいいのに「いつか文庫で出るやろ」と構えているうちに3年(笑)。旬のうちに読みたいものだが、文庫も各書店で平積みになっていて、よく売れている様子なので、まだまだ旬は過ぎていない、ということにしておこう(笑)。
『心淋し川』 西條奈加
集英社文庫 ¥704
【第164回直木三十五賞受賞作】
まずタイトルが秀逸。『心淋し川』と書いて「うらさびしがわ」と読む。舞台となるのは江戸の千駄木町。中でも貧乏長屋、現代的に言えば「バラック群」が並ぶ窪地が「心町(うらまち)」。その真ん中で淀んでいるのが「心川(うらかわ)、心淋し川」である。文字通り、心の淋しい人たちが肩を寄せ合うように暮らしている。
なかなか思うに任せぬのが世の中であり、年を重ねれば重ねるほどに心の底に泥もたまってゆく。「誰の心にも淀みはある。でも、それが、人ってもんでね」と長屋の差配、茂十は言う。この言葉が染み入る。「俺のことを慰めてくれてるんかえ」と思えるような名言がそれぞれの短編に必ず一つは出てくる。こういうのに出会うと、「ああ、読んでよかった」と思うと同時に、この本に巡り合わせてくれた「天の配剤」に感謝するのである。つくづく、「良い読書」とは「天の配剤」の賜だと思う。
表題作含め6作の短編連作で構成されている。全編に通して登場するのが差配の茂十。さらには惚け老人の通称・楡爺。だれも素性を知らない。もっともこの心町では「何があったのか聞かぬのが心町の理」ということなので、知らなくても不思議はない。ところが…。最後の「灰の男」で、この二人の因縁が明かされる。この編では、ほかにもこれまで物語に登場した貧乏長屋の人たちのその後も描かれ、うまいこと幕引きと相成るのだが、茂十と楡爺、二人の子の死を巡る因縁はインパクトが強かった。鮮血が飛び散る雪だるまが見る中で、二人の子は死んだのだが、鮮血がページから飛び出してくるようであった。
表題作「心淋し川」は、酒浸りの父と愚痴ばかりの母。姉は鮨売りの男に嫁いだ。十九のちほはどん詰まりの燻るような日々を送る。針仕事先で知り合った上絵師と付き合うようになり、彼に嫁いで家を出ることを夢見る…。は最後の「灰の男」でちほの”その後”が明らかになる。
「閨仏」。いたずら心から張形に仏像を彫り始めた年増の”おかめ”のりき。妾4人が一緒に暮らす。青物卸の旦那の趣味なのだが、旦那の死で4人は次の人生に向かう。その中でりきが選んだ道は…。
「はじめましょ」も良作である。すべて四文銭で片が付く飯屋「四文屋」の与吾蔵の物語。死を前に、与吾蔵に店を任せた稲次が与吾蔵に言う。「おれの弱気もおめえの勝気も、世間さまじゃ疎まれる。ここはそういうはみだ出し者ばかりが吹き溜まる。世の中って海を上手に泳げないまま流されてきた。灰汁が強かったり面倒な者もいるが、少なくともあたりまえを楯に、難癖をつけるような真似はしねえ」。いやもう、よう言うてくれました!という名セリフ。「心町」に暮らしたいもんだねぇ…。
この3篇が気に入ったのだが、「冬虫夏草」「明けぬ里」も読ませる内容だった。いずれの物語も、明る過ぎず、さりとて暗いわけでもなく、どぶのように淀んだ日々の中に、針の穴ほどの光明が差し、そこへ向かって歩み始める人たちの姿を優しく見守るような締め方をしており、読後感のよいものばかりだった。「よい本を読めたなぁ」と嬉しくなる一冊である。
(令和5年10月13日読了)
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西條奈加を読むなら、まずはこれがおススメ! |
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
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