【香港!HONG KONG! Feb.2023】龍躍頭文物徑<2>

<どんなけ爆竹鳴らしたんでしょうな(笑)。香港は爆竹、花火の類を一般市民が使用することは禁じられているが、新界の農暦新年だけは「治外法権」(笑)>


龍躍頭文物徑(Lung Yeuk Tau Heritage Trail)」の続きであります。

松嶺鄧公祠(Tang Chung Ling Ancestral Hall)」の次に向かったのが、「東閣圍(Tung Kok Wai)」。圍とあるからには城壁村なんだが、完ぺきな形で残っているわけではないのは、これまで見てきた所と同様。前面など一部にそのよすがが残るのみ。龍躍頭一族の13代目当主、鄧龍崗(1363~1421年)が開いた城壁村で、浸水の被害から村を守るため、村の敷地が高くなっているのが、下の写真からもわかる。現在の正門と左右の城壁は1953年に再建された。

ほどなく「永寧村(Wing Ning Tsuen)」、別名「大廳」に到着。隣接する「永寧圍(Wing Ning Wai)」の分家のような村で、約300年の歴史がある。元々、村内の家は北東を向いて3列に配置され、風水が良くなるように前列の家は後列よりも低くなっていたらしいが、現在、ほとんどが新しい家に建て替えられている。ここも、住民のプライバシー保護のため、立ち入りは禁じられているので、ガイドブックの受け売りである(笑)。

入口近くには、「福徳祠」という小さな堂宇があって、村の信仰の中心となっているようだ。

そしてこちらが本家の「永寧圍」。400年を超える歴史ある城壁村だが、現在はこの写真の部分を残すのみで、内部もすっかり変わってしまっている。この門の部分は、清の乾隆帝9年(1744)に再建されたもの。

しかし、車、どうしたんでしょうね。ボコボコですやんww

次の目的地に行くため、沙頭角公路(Sha Tau Kok Road)という幹線道路を横断する。沙頭角(Sha Tau Kok)と付くからには、かつては中英緩衝地帯にして、一般香港市民や外国人が進入できなかった、あの沙頭角とつながっているわけで、その先は本土である。ゴルフの行き帰りによく通った道路だな。

渡ったところに、こんな古ぼけた店舗跡が。「合和」なんてよくある店名だし、雑貨の文字からもわかるように、油、砂糖、酒、なんでも売ってる店、よろず屋。こういう店は、小生が住んでいた田灣(Tin Wan)にもあって、非常に重宝なんだが、コンビニやスーパーが増えたことで、ほとんど淘汰されてしまった。それと、この蛇腹式のシャッター、これも最近、とんと見かけなくなってしまった。

「けっこうな距離、歩きましたな~」って言ってたら、この標識。結局、粉嶺エリアの中でグルグルしているだけだった。新界は広い(笑)
この門の奥に見えるのが「善述書室」

再び、ウネウネと歩き「善述書室(Sin Shut Study Hall)」にたどり着く。新屋村(San Uk Tsuen)という集落の一角にあり、清の時代、道光20年(1840)に龍躍頭の鄧一族19代目当主、鄧雲階を記念して建てられた。この書室は、先祖や神々を祀るだけでなく、一族の子供たちの教育にも使用され、龍躍頭文物徑(Lung Yeuk Tau Heritage Trail)に現存する唯一の書室。1938年以前は校舎として使われており、古武道で使われる刀剣、戟(ほこ)、弓矢などの武器も置かれていたが、第二次大戦後は幼稚園に転用された。個人所有の物件のため、内部へは入れないが、写真の門から善述書室までは出入り自由なんで、一歩踏み込めばよかったと、今頃後悔(笑)。

新界独特の三階建て住居「丁屋」が建ち並ぶ。多くの場合、各階には別個の世帯が入居している。最上階の世帯は、屋上を使用できる。小生の友人の一人も新界で暮らしていたことがあり、何度か訪問したが、彼がまさしく最上階に住んでいて、当然ながら屋上使い放題だった。この写真の丁屋は、各戸の間取りは相当広そう。風通しもよさげである。ちなみに、丁屋については拙ブログ《【睇戲】『インターセプション 盗聴戦』(港題=竊聽風雲3)》で説明しているので、参照されたし。いかにも新界らしい英領以前からの制度と言うか、因習と言うか…。こういう香港がHong Kongになる以前を今の時代でも見ることができるのが、新界歩きの面白さ。

そんな丁屋の並ぶ村をブラブラ歩くと、デーンと威容を現すのが「新圍(San Wai)」、またの名を「覲龍圍(Kun Lung Wai)」という、立派な城壁村。今回、様々な城壁村を見てきたが、これほど立派な規模の大きいものはなかっただけに、「おおお!!」って感激してしまうやん。

横が広すぎて収まらない。パノラマで撮影しておくべきだったと後悔

正門上部の扁額には「覲龍」あり、さらによく見ると「乾隆甲子歳」と刻まれており、1744年に建設されたことがわかる。城壁の所どころには、外敵の攻撃の備えた「槍孔(矢狭間=やざま)」、城壁の四隅には見張り用の櫓もある。当初は周囲は堀に囲まれていたとのことだが、現在は埋め立てられてしまっている。

日本の城でもよく見かける「狭間」

元々は、城壁内部は中央の道を中心に両サイドに家屋が並んでいたらしいが、今ではほぼすべてが建て替えられており、原形を残していないとのこと。ここも内部は開放していないので、確かめることはできない。楼門と城壁は、それぞれ1988年3月と1993年4月に法定古蹟に指定されている。

これにて、龍躍頭文物徑の主要な古跡はほぼ見て回ったことになる。お腹いっぱい、充実のトレッキングだったわけだが、さて、最寄りの駅へはどう行けばいいのか。お友達さん曰く「その前に北區公園(North District Park)へ寄ろう」と。正直「まだ行くんかい!」と思うも(笑)、駅への道すがらなら、まあええかと。

再び、こういう所をオネオネとウネウネと歩き続ける。しかしこの二日間、よく歩いたもんだ。歩くのが苦にならないタイプでよかったよ。ま、その辺はお友達さんも承知の上でのチョイスだったとは思うけどね。

小一時間、歩いただろうか。街のざわめきが聞こえてきて空気ががらっと変わるのがわかる。北區公園に隣接する粉嶺圍(Fanling Wai)に到着した模様。模様、と言ったのは、圍、すなわち城壁村のはずなんだが、エリアが広大なのと、村内をぐるぐるする余裕も余力もなくなりつつあったので、最も有名なところを散策するにとどめた。

御多聞に漏れず、農暦新年から元宵節仕様

新界五大氏族の一つ氏が、現在の広東省潮州地方から移り住んだのが始まりで、粉嶺圍は明朝萬曆年間に彭一族が築いた城壁村である。内部には有名無名の古跡が現存しており、時間があればゆっくりと見て回りたいところ。これは次回里帰りの楽しみとしておこう。

白い丸三つが、彭一族の家紋のようである。随所にこの紋が見える。この楼門は西側の門になるようだ

有名なのはこの門の前に並ぶ三門の大砲「三台古砲」。清朝の康熙帝の初期に設置されたもので、この地域に山賊や海賊がよく出没したため、防衛のために建てられた。1941年、日本軍が香港を占領した際、村民は日本軍とのトラブルを恐れて地中に埋めたが、1986年に掘り出され、現在地に移転された。と、偉そうに書いているが、実は写真を撮っていないという大失態を犯してしまった(笑)。まあいいだろう、再び訪れるための口実が増えたということで(笑)。

村の向かいに月池という池があり、粉嶺圍が水面に映る。写真を拡大してみると、辛うじて「三台古砲」らしきものが確認される。

で、北區公園だが、ここはもう休憩とこの後の予定確認にために、腰を下ろしたという程度で、心を動かされるものは特になかった。元宵節という時期なんで、様々なランタンが設置されていて記念撮影する家族連れなど多数いたが、だからどうなんだというところ(笑)。ってことで、駅へ向かって出発。東鐵線上水(Sheung Shui)までは10分かかるかかからないか。今回の里帰りの「最後の晩餐」のために、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)へ向かう。

もう大阪へ戻らなければならいのかと思うと、悲しくなってきた…。

↓↓↓ 龍躍頭文物徑のコース図。よく歩いたもんだ…。

なお、立派なガイドブックが「松嶺鄧公祠」にて無料配布されていたので、いただいてきた。こういうの、ほんと香港はしっかりやっている。


インターセプション ー盗聴戦ー』 [DVD]

『インファナル・アフェア』の監督×脚本コンビが放つ傑作クライム・サスペンス!―仕掛けられた盗聴器― 金と権力と欲にまみれた男たちの闘いに勝利するのは誰か…?

←本文でも紹介した映画。劉青雲、古天樂、呉彦祖、周迅、葉璇、曾江、呉孟達等々、スター勢ぞろいで、新界の土地開発問題に端を発した金と権力と欲にまみれた争いを描く


コメントを残す