【蘋果日報廃刊】扇動者「毒果」終焉の日

アイキャッチ画像:2021年6月24日(夏暦辛丑5月15日)付紙面の輪転機稼働を伝える民主派系ウエブニュース『立場新聞』のライブ画面。この媒体も今後の活動は厳しくなるだろう>


蘋果日報(Apple Daily)』が6月24日付で発行を終了した。26年目にして終焉の日を迎えた。2億5000万円相当の資金が凍結されてしまった以上は、身動き取れずでどうしようもない。

6月23日深夜から24日未明には、最終版の到着を待つ市民で長蛇の列となる。ただし、「転売屋」も多かったようで、ネット上では1部HK$1,000で販売されていた by 端傳媒
1996年6月20日付創刊紙面の1面。当時、興味の的は「初代特区政府行政長官は誰だ?」だった。まじめにやってるが、見出しからもすでにその「反中姿勢」が読み取れる

1995年6月20日、『蘋果』創業者であり、ファストファッションチェーン「ジョルダーノ」の創始者でもある黎智英(ジミー・ライ)の全身に矢が突き刺さったポスターやテレビCMが話題を呼ぶ中で、『蘋果日報』は産声を上げた。小生は、そのほぼ1か月前に香港生活をスタートさせた。記念すべき創刊号も、家中ひっくり返せば出てくるだろうが、家の中が悲惨なことになるのでやらない(笑)。在港生活では一番目を通した新聞ではあった。「ではあった」としたのは、けっして「愛読者」ではなかったという意味だ。

若き日の黎智英(ジミー・ライ)。その身は今、獄中にある(1995年12月15日 by 端傳媒)
民主派のデモには必ずその姿があった黎智英(フラッグ持ち手の右端。隣は民主党の李柱銘(マーティン・リー)、その横には支連会の司徒華、天主教香港教區主教の陳日君・樞機) 2007年7月1日「七一大遊行」にて筆者撮影

創刊当初から「反中姿勢」をウリにはしていた。本土への持ち込みは厳禁。たまに通関で没収されている人を見かけた。とは言え、基本路線としては『東方日報』をはじめとして数多く存在していた「娯楽、大衆路線」の日刊紙という気楽な存在だった。そんな『蘋果日報』に対する小生の認識を一変させたのは、1996年8月から10月にかけて吹き荒れた「尖閣ムーブメント」であった。これは他紙も同罪ではあるが、とりわけ『東方日報』と『蘋果』、当時はまだ高級紙とされていた『明報』が先頭に立って中華民族意識と反日感情を鼓舞しまくっていた。まだまだ根底に反日意識が根強かった香港市民は、それに見事に踊らされていたものだ。

それまで小生は『蘋果』には好意を抱いていたが、このときの一連の同紙の報道姿勢で、「信用ならない新聞」という認識に転じる。『蘋果』はまるで左派紙と歩調を合わせたかのように連日、「港人是全球唯一勇敢的中華民族=香港人は世界一勇敢な中華民族」として、尖閣に不法上陸して五星紅旗を打ち立てた民主派人士を「壮士」として称え、警告する日本の海上保安庁巡視船を「日本海軍軍艦」という嘘をまき散らし、香港市民の根底に残っていた反日意識と、中華民族意識を煽りまくったのである。ちなみに、今回の同紙廃刊で東京本社版1面トップに惜別の「ポエム」を載せた『産経新聞』は、このときには独自の取材で「尖閣は日本領」を裏付ける古文献を次々と公開していたのだが、それについて『蘋果日報』は「日本の右翼機関紙『産経新聞』が発見した取るに足らない資料」などと紹介していたのを思い出した。そんな『産経』と『蘋果』は、いつの間に「朋友」になったのだ?(笑)。とにかくこの時は(以前も以降もw)コラージュ写真も多く、『蘋果』自体の尖閣報道も決して「取るに足らない」ものが多かった。

祖国回帰を控え、『蘋果』の政治化が急激に先鋭化してゆき、民主派シンパとしての色合いを強めて行く。特に「六四」関連については、他紙の追随を許さない、まるで「自社イベント」のような扱いで紙面の大半をこれの報道に割く。回帰後、民主派のデモが増えて行く中で、同紙は常にデモを扇動し、動員のための紙面づくりに徹する。勿論、度々挙行された民主派人士らによる「尖閣不法侵入」に際しても「尖閣=中国領」を主張し、挙句には「人民解放軍は尖閣突入船を護衛せよ」などと言い出す始末であった。

駐港解放軍で「護衛」の請願をする尖閣侵入人士を伝える『蘋果』(2009年4月24日付)

回帰後の香港で、デモがやたらと増えたのは、もちろん香港特区政府の不作為もあるが、それ以上に現在「伝統的民主派」と呼ばれている、回帰以前からの民主派人士の政治的手腕の無さと過剰な人民主義こそが大きな原因だと思う。本来、メディはそこを追求すべきなのだが、すでに圧倒的シェアとなっていた『蘋果』はそれをせず、彼らに同調して「デモ」を扇動することに徹したのである。回帰後、今日に至るまで、香港をミスリードしてきたのは伝統的民主派と『蘋果日報』である。

2015年回帰記念日当日紙面。「今日のデモにはこの紙面持参で、頭上に掲げよう」と呼びかける。まるで自社主催イベント気分(笑)
2019年の「反送中」では市民に大々的なストライキ=大罷工を呼びかけ、社会の混乱を企てる
「六四」と言えば『蘋果日報』。各紙それなりの紙面を割く「六四」だが、ここまでやるのは『蘋果』だけ。これで中面も「六四」一色なのだから、けっこう疲れるw (紙面は2019年6月5日付、「六四」30周年翌日)

そのミスリードが香港にもたらしたものは何かについては、2014年の雨傘行動から一昨年の暴力破壊行為、昨年の国安法という流れの通りである。2019年の「反送中」が転じた暴力破壊行為を擁護、支援し、非道な行為を批判しなかった同紙の罪はあまりにも大きい。その結果、多くの未成年が逮捕された。今、黎智英を筆頭に幹部が続々と逮捕されているのは、これらの社会の安定を損なう行為を扇動し、欧米などの「外国勢力」と結託して暴力破壊行為を支援した疑いからである。あの「火付け、打ち壊し、集団暴力、殺人…」の日々を先頭を切って支持したのだから、『蘋果日報』が国安法で裁かれるのは、当然の流れだろう。「言論の自由」云々以前の問題なのである。

そして『蘋果日報』は創刊26年目にして発行を終えた。創刊から最終版まで、香港に「毒」をまき散らした「毒果=毒リンゴ」の最期である。まともな平穏な日々への第一歩というものだ。

2021年6月23日深夜、蘋果日報執行總編輯・林文宗が取材に集まった各媒体の記者に謝辞を述べた by 端傳媒

さて、『蘋果』と言えば独特のタッチの「解説漫画」が印象深い。「現場写真はないけれど、取材を元に想像で描いたらこんなん出来ました!みんな見て~!」みたいな、なんとも味わい深い絵である。茶餐廳での朝飯のひとときに爆笑させてくれる楽しい一面も備えていた。この漫画の製作担当者には、ぜひともどこかのメディアで「復活」してほしいと思うが…。

実は小生、『蘋果日報』を商用で何度か訪問している。正確には同紙を印刷する、同じ壹傳媒有限公司(Next Digital Limited)グループ会社のナントカっていう印刷会社。実際に稼働する輪転機も見せてもらったんだが、なかなか壮観な印刷工場だった。『蘋果』は創刊当時から、カラーの発色の良さには定評があり、機械もさることながら、熟達した工程スタッフが揃っているのは、な~んとなく感じていた。実際に訪問して、製作現場を見せてもらったことでレベルの高さを実感したものだ。あの工場や輪転機、どうなるんだろう…。

お別れの特集紙面。あらかじめ最終日が決まっていたわけでなく、いきなり「明日で終わり!」という中で、整理部はできるだけのことをしたんやなと感心。こういうのは、ただ並べたらいいというわけではないから…

とまあ、小生の香港生活とほぼ同時に創刊された『蘋果日報』だけに、思うところは色々ある。毎日折り込まれていた別刷りの「副刊」は、ネット環境が整っていなかった時代に貴重なトレンド情報を届けてくれた。芸能別刷りもコンサートの速報記事からスキャンダルまで情報満載だったし、エロエロ別刷りは写真のあしらいが大胆で紙面を3センチ顔に近づけてしまうし(笑)、競馬別刷りは「馬柱」が見やすかったし…。「お楽しみ」もたくさんあった。

ではあるけど、肝心の<本紙>の部分では、やっぱり「アカン新聞」やったなぁ、と思う…。ま、「アカン新聞」やから、終わってしまったということですな…。

最終日は過去最高100万部を印刷。完売したとされている by 端傳媒
ウエブサイトも24日未明には終了した
2021年6月24日(夏暦辛丑5月15日)付最終発行紙面の1面。いつの間にか、蘋果の1面から広告は消えていた。広告営業は苦労の日々だったと思う

競合紙『東方日報』は常に「蘋果憎し!、黎智英憎し!」のキャンペーンを張っていたが、ついに勝利の凱歌を上げる。見出しの「壽終正寢」は、かの逃亡犯条例を香港特区政府が廃案にした際に、林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官が「逃亡犯条例は葬られた=壽終正寢」と発言して以来、目にした。ここでこれを使うとは『東方』もキツイことするな(笑)。嬉しくて嬉しくて、仕方ないんやろな(笑)。

とにかく、一般の社員の皆さんは、どうぞご安全に。またどこかの媒体でのご活躍を祈念します。

あ、最終版ですけど、小生、お友達に頼んですでに確保していますよ。早朝から近所の新聞スタンド開店まで1時間以上並んでくれたとのこと、深謝する次第であります。転売サイトでHK$1,000払わずに済んだ(笑)。


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