御朱印男子
紫金山小松院法樂寺
感謝を込めて 平成最後のたなべ不動
幼いころから慣れ親しんだ「やまじん」こと山阪神社から、鳥居前の下高野街道(現在の南田辺本通商店街)を北へ5、6分歩けば、大念寺と安楽寺が下高野街道を挟む形で並んで建つ。寺の多い田辺でも、最も寺の密集している界隈である。その前の東西の通りを西へ2分行けば、これまた幼いころから慣れ親しんだ古刹、法楽寺にたどり着く。正式には「法樂寺」だが、拙ブログでは、世間一般に倣い「樂」を「楽」と記す。
「たなべ不動」として、古くから信仰を集める歴史ある寺で、2028年には創建850年を迎える。そこからも、この田辺の地が、いかに古い町かがわかる。それは素晴らしいことではあるが、一方で、血縁者が多く、ゆえに親戚間のもめごとも耳にすることが多い。小生の一統でさえ、同じ田辺地区の別のお寺だが、過去帳が400年以上前にまでさかのぼることができると、お寺さんは言う。大変誇らしいことではあるが、それゆえにウザいことも多い…。愚痴はまた別の機会に…。
実は小生、生まれてから大学入試浪人中の秋まで、ここから徒歩2分ほどのところに住んでいた。だから、山阪神社以上に、ここが遊び場だったのだ。敷地の一角に母の叔父夫妻と孫が住んでいて、そこへ毎日のように遊びに行っていたし、寺のお嬢が弟の同級生で、ごくたまに、弟について行って一緒に遊んだこともあったわけで、小生にとっては、最も身近な信仰の場であり遊びの場、それが法楽寺、という次第だ。
【御朱印File 16】紫金山小松院法樂寺(しこんざん こまついん ほうらくじ)
真言宗泉涌寺派の大本山である。大阪市内でありながら、上述のような旧弊で昔の村社会の気質が随所に残るこの田辺にあって、敷地は広大で樹齢800年を超える楠の巨木が聳える、古刹と呼ぶにふさわしい堂々たる寺である。
本尊は、大日大聖不動明王立像。左右には、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従える。さらに、本堂の右脇陣には、釈迦牟尼仏を中尊として、両脇に如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩、左脇陣には、十一面観世音菩薩を本地とする大聖歓喜天を奉安する。
その本堂は、信長の大坂攻めの戦火で寺は全焼したが、大和大宇陀院の松山藩主織田家の殿舎を譲り受け、今日に至る。移築から約300年のものと思われる。非常に立派な本堂である。中に上がって、ご本尊を拝むことができる。おばあはんがそうしていたから、今も小生は上がってご本尊と両脇の仏さんを拝んでいる。
こちらの山門も本堂と同じく、織田家の殿舎を移築したものである。車が写っておるのはご愛敬。さらには小生のチャリまでチラッとね(笑)。
幸運にも先の大戦では、この辺りは大きな爆撃は受けず、寺はもちろん、民家も無事だった。小生が生まれ育った家も、昭和初期の建物だったし、現在も、かなり古い民家が数多く残っている。小生が子供の頃は、へっついさん(大阪弁で竈を指す)のあるおうちも、まだまだたくさんあった。今はどうだろう?
平成8年に再建された、本堂前にそびえる三重塔が美しい。小生、香港在住中につき、一時帰国時に母から「法楽寺にきれいな三重塔できてるから、拝んどいで」と言われたので、さっそく伺うと、幼少の頃とは趣を一新した境内に、一瞬戸惑いながらも、立派な塔を見て、別に檀家ではないが、大きな喜びを感じたものだ。建立にあたっては、我が家も幾ばくかの御寄進はしているはずだ。檀家ではないが(笑)。
正式には「法楽寺三重宝塔」と命名されており、三笠宮崇仁親王殿下ならびに同妃殿下のご臨席のもと、三重塔本尊開眼供養ならびに落慶法要を厳修した。伽藍の復興は、住職の悲願だったとのことだが、田辺の町にとっても、大変喜ばしく誇らしいことである。
塔内部の仏舎利塔には、法楽寺で最上最尊の寺宝「育王山伝来の仏舎利二顆」に奉安されている。
法楽寺の創建は、治承2年(1178)。平清盛の嫡男・平重盛の草創と伝わる。重盛は小松内大臣と呼ばれていたことから、院号は小松院。重盛は、宋の育王山仏照国師を崇拝しており、黄金三千両を祠堂料として送ったことで、紫金の舎利二顆をいただき、この寺に納めている。紫金とは「紫磨黄金(しまおうごん)」の略で、紫色を帯びた最高の黄金を意味しており、山号の紫金山はこれに由来する。この「紫金の舎利二顆」が、三重塔に奉安され、今に伝わっている。
ちなみに、小松の大臣(こまつのおとど)こと重盛は、歌舞伎や文楽で義太夫節にたびたび名前が登場する。その度に小生は「この人、うちの近所のお寺建てた人やねん!」って周りに言いたくなる(笑)。どんだけ地元愛強いねん(笑)。
信長の大坂攻めで、一度は灰燼に帰した法楽寺だが、天正13年(1585)、寺はひとまず復興する。江戸時代中期の正徳元年(1711)、洪善普摂(こうぜんふしょう)律師が、当寺の三大律院の一つだった河内野中寺より晋山し、法楽寺を律院として、本格的復興を図る。その際に移築されたのが、本堂と山門である。
ちなみに、先の大戦後しばらくまで法楽寺は律院であった。
法楽寺の歴史の中で、名前を忘れてはならないのが慈雲尊者である。享保15年(1730)11月、13歳で法楽寺に入り、得度。幼名は上月満次郎。後に、一宗一派にとらわれることを非とし、まず等しく戒と律とを保った上での諸宗兼学を是として、常に仏陀釈尊の教えに忠実であることを説いてやまず、また現に実行された正法律思想の唱道者で、山岡鉄舟が「日本の小釋迦」と評したほどの人物である。慈雲さんに関しては、小生がとやかく言うよりは、法楽寺の公式サイト内に、非常に詳しく紹介されているので、ご興味があれば是非!
法楽寺と言うよりも、田辺のシンボルである楠の巨木。大阪府下では住吉大社の楠の次に古く、昭和56年6月1日には「大阪府指定天然記念物」に指定されている。昔と変わらず、どっしりとたたずんでいてくれるのがうれしい。でも楠は知っている。この下で、小生が子供のころ、どんな悪さをしたかということも(笑)。
楠の足元には、神仏がおはしまする。こちらは、ご本尊でもあり、「たなべ不動」の名を全国にとどろかせるお不動さん。昔は背後をブロックとコンクリートで固められて、少々窮屈そうだったが、今は洒落た雰囲気になっている。お不動さんに向かって左に、小さな役行者像も。
法楽寺のお不動さん信仰がいつから今日のような形に定着したのかは、定かではないが、『摂津名所図会 法楽寺』を見ても今日のような「水かけ不動」らしきものは見当たらないので、これが描かれた寛政8~10年(1796~1798)以降のことかと思われる。
朱塗りの鳥居が並び、狐さんが迎えてくれるのでお稲荷さんかと思いきや、「楠大明神」とは、これいかに? ここも昔と変わらず。
英霊地蔵尊(中央)と修行大師さん。参拝することで、代わりに遍路を行ってもらえるというから、ありがたい。ここも、ほぼそのまんまやな。ほんと、いつ来ても懐かしい。時代をそのままにしてくれている場所である。こういう場所が身近にあるのは、幸せなことだとつくづく思う。だから、地元の人は、旦那寺以上に法楽寺さんを大事にするねんよな。
客殿、庫裏が昔のまんま。律院だったという風情が感じられる作りだ。小生の母校、大阪市立田辺小学校は、この庫裏から歴史が始まったのだ。時に、明治6年(1873)5月26日。確か、大阪では1番か2番目に古い小学校である。そうなのだ、今日が創立146年の記念日なのだ!
大師堂もいつの間にやら、きれいになってる。昔はもっと味のあるお堂だったが。ま、こちらも何百年の歳月を重ねれば、味のあるお堂になるだろうけど、小生は生きていない(笑)。
楠とともに、法楽寺のシンボルとなっている大きな銀杏の木。こちらの樹齢も相当なもんだと思われる。銀杏(ぎんなん)を拾ったもんだが、時期を誤ると、臭いわな、当然ながら(笑)。
石碑には「當山鎮守秋葉大権現」と刻まれている。秋葉大権現は火事の神さん。法楽寺の守り神である。
【御詠歌】
みほとけの御法楽しむこの寺に
あしゃらのうたの誓いたのまん
*あしゃら=阿遮羅は梵語で「Acala」。不動明王のこと
「法楽寺」という寺名は、敵味方の区別なく慈悲の心で接する「怨親平等(おんしんびょうどう)=絶対平等の慈悲の心」の法楽に由来する。先述の通り、本堂には如意輪観世音菩薩がおいでになるが、如意輪観世音菩薩は敵方の源義朝の念持仏である。重盛は、こうして「怨親平等」の精神で、源平共々の慰霊をしたということである。その如意輪観世音像の背面には、「左馬頭義朝一刀三礼(仏像を彫る時、一刻みごとに三度礼拝すること) 久安二年(1146)丙寅(ひのえとら)二月十八日法眼湛幸作之」との墨書銘がある。見たことないけど(笑)。
<御朱印>
<朱印>
右肩 近畿第三番
中央 宝珠に不動明王の梵字で阿遮羅(多分ww)
左下 法樂寺印
<墨書>
右 奉拝 平成三十一年四月三十日
中央 大聖不動明王
左 法樂寺
近畿第三番とあるのは、近畿三十六不動の三番札所の意。ほかに、摂津国八十八箇所第四十番、おおさか十三仏霊場第一番札所、役行者霊蹟札所、神仏霊場巡拝の道第四十七番札所となっている。いつの間に、こんな参拝システム作りを進めていたのか…(笑)。
平成最後の日とあってか、ここも御朱印を求める人多し。小生だって、先の山阪神社同様に、よもやここで御朱印をいただくことになるとは、想像もしていなかった。そもそも、御朱印あったのか!ってところだ(笑)。そりゃアナタ、境内だけでなく、おうちの方でも遊ばせてもらってたヤツですよ、俺。どう考えても「御朱印」というスジではないだろうに…(笑)。
で、あるからこそ、御世替わりに御朱印をいただけるという、ありがたさが身に染みるのである。
法楽寺さんについては、まだまだ調査したいことが山ほどある。先ごろ、小生が幼いころからよく存じ上げる住職から、新しい住職にその重責のバトンが引き継がれた。先代住職、新住職にお寺のことを中心に、田辺の歴史について色々とお伺いする時間を作りたいものだ。そのためには! 繰り返すが「我に時間と調査費用を!」と…(笑)。
追記
まだまだ境内を紹介したいが、この日、撮影しておらず、PC内のストックもなし。近いうちに写真が増殖しているはずなので、ちょいちょい覗いてね(笑)。
<ところ>大阪市東住吉区山坂 1-18-30 <あし>JR阪和線南田辺から徒歩5分、大阪メトロ谷町線田辺駅から徒歩10分
(平成31年4月譲位の日 参拝)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
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