【上方芸能な日々 素浄瑠璃】第21回 文楽素浄瑠璃の会

素浄瑠璃
第21回 文楽素浄瑠璃の会

毎回楽しみにしている「素浄瑠璃の会」。今年は、咲さんと仁左衛門丈の対談コーナーがあるので、何が何でも万難を排して駆けつけたい、というもんだ。演目も、『和田合戦女舞鶴』と『曲輪文/章』。とりわけ、「和田合戦」は聴きもの。

和田合戦女舞鶴(わだかっせん おんな まいづる)

■初演:元文元年(1736)3月、豊竹座
■作者:並木宗輔
・全五段時代物
・和田氏が北条氏に反旗を翻した「和田合戦」(建暦3=1213)を題材とするが、史実とは大きく異なり、古浄瑠璃や義太夫正本『悦賀楽平太(えがらのへいた)』などの内容を取込みつつ、建暦元年秋の出来事として構成されている。

 

なかなか聴く機会がない演目。調べてみると、昭和41年以降、人形浄瑠璃では平成元(1989)年 9月に国立小劇場で公演されたのが、今のところ最初で最後。今や、「稀曲」「珍品」の類に入るか。だから、こういう機会に聴いて、観たいと思ったら劇場に「人形入れて見せてくれ!」ってリクエストすればいいし、「別に観たいと思わんなぁ」と感じたら、黙っておけばいい(笑)。


この時、今回上演される「市若初陣の段」の床は、十九さんと喜左衛門師匠。人形は、市若丸に清之助(現・清十郎)、板額は文雀師匠。浅利与市を玉幸はん。他に紋壽師匠、一暢はん、清三郎(現・文昇)という面々。ちなみに前段の「板額門破りの段」は、嶋さんと清介はんだった。

「市若初陣の段」 呂太夫、清友

まずいつものように、大阪市大の久堀センセの解説があるので、わりとスッと浄瑠璃に入っていくことができる。

初演の番付は伝わっていないが、本段を語ったのは 豊竹越前少掾(初代若太夫) と推定される。そのため、本曲は 越前少掾の曲風「越前風を伝える貴重な一曲とのこと。自慢じゃないが、小生如きにその「越前風」が、他とどう違うのかを聴き分ける耳があるはずもないのだが、初代若太夫は非常に高い音に優れた美声の持ち主 だったということで、全体に高い音域で語る部分が多いのが特徴だという。初陣の市若丸が、母の板額(はんがく)が、180㎝の力持ちの大女だという解説が妙に印象に残ってしまい…(笑)。

さて、呂さんが、果たして「非常に高い音に優れた美声の持ち主」かというと、ちょっと違うかなというところだが、呂さんのお爺さんが10代目の若太夫ということを思えば、初代から脈々とつながる「何か」を感じさせてくれんじゃないかという期待もある。それは、置いといて(置いとくんかい!w)。市若丸と板額の母子の心象描写が響く。

我が子と聞くより板額女、門押し開き飛んで出で
「ヤレ市若おぢやつたか。待ちかねましたほんにマア、よう来たことぢや」と嬉しさも、そぞろになれば
市若も
「母様、久しう逢はぬゆゑ、逢ひたかつた」
と取り縋る

なんてのは、のっけからねぇ…。夫、浅利与市からの伝言で板額は、市若丸の兜の紐を結んでやろうとするも、切れてしまう。ここ、大事な伏線。しかし、「11歳以下の子供の軍勢」ってのも、とんでもない「奇襲」だわな…。

市若丸が切腹し、息絶える場面の、市若丸、母・板額、父・浅利与市の心象表現は、相当難しいところだと思うが、ここは当然一番の聴かせどころ、泣かせどころ。そこで、わーっと客席から拍手が起きたのだから、呂さんの熱演が聴き手の心を動かしたということだろう。

結局、この物語の「誰かの子が誰かの子の身替り」として命を絶つ(絶たれる)というものだった。「そいう時代だった」と割り切って聴くべきだけど、夏休み公演の「身替り音頭」に続いて来られると、切ないものがある…。

曲輪文章(くるわぶんしょう)

近松の『夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)』の上之巻を一部書き換え独立させて一幕に仕立てた、歌舞伎から逆輸入作品。多流派「宮古路節(みやこじぶし)」の影響が色濃い作品。「曲輪文章」と4文字になるを避けたいので番付では「文章」を「文へん+章」の一文字にしている。PCでそんな字は出てこないので、拙ブログの上では「文章」と表記する。

文楽の舞台で曲輪文章を前回観たのは、平成2年(1990)の新春公演だから相当昔の話になってしまった。まあ、歌舞伎では何度か見物の機会があったので、「久々感」は全く無いし、さっきの「和田合戦」とは違い、聴く前からすでに筋もわかっているので、ゆったりとした心地で、聴くことができた。

「吉田屋の段」 咲太夫、燕三

これはもう、咲さんに身も心も委ねておけば、すべてOKという場。さっきの「和田合戦」は、「聴き逃すまい」って感じで前のめりになってしまわざるを得なかったが、ここは「な~んも考える必要ない」場だった。

途中、喜左衛門夫婦が去って、奥の間から聞こえる地唄「ゆかりの月」。このような 隣近所から聞こえる音曲の内容が、登場人物の心に触れる演出の趣向を「余所事(よそごと)浄瑠璃と呼ぶのだそうで、ここは近松の原作にはなく、増補された部分だとのこと。

この後の夕霧のクドキが、延々15分続くというクドい長さ(クドキだけにクドいw)で、「あんたなぁ、そんだけ言うたらもうエエやろ」というほどのものなんだが、ここもやっぱり前半部分は増補だというから、増補も善し悪しやなぁと思った次第。

幕切れはハッピーエンドで、「よかったね」ってところだが、歌舞伎とは一味も二味も違う、味わいがあった。そこはやっぱり、咲さんがやればこそのものと思う。

対談 浄瑠璃よもやま話 ―文楽と歌舞伎の「吉田屋」について―

片岡仁左衛門、豊竹咲太夫
司会:亀岡典子(産経新聞文化部編集委員)

今回の一番のお目当ては、この対談。いつもの素浄瑠璃の会とは違い、舞妓さんが客席におったりして、なかなか「歌舞伎色」も濃い文楽劇場。舞妓はん、もっと文楽にも来てちょうだい!

ニザさまと咲さんは、仁左衛門デザインの揃いの浴衣で登場。二人とも実にシュッとしてはる! 百戦錬磨の亀岡ちゃんもさすがにウキウキな様子(笑)。ちなみに、仁左衛門は平成10年の1月、2月の歌舞伎座で、『吉田屋』の伊左衛門などを演じて十五代片岡仁左衛門を襲名しており、今回のゲストにふさわしいお人。

同い年だそうな。親の代から親交深いということで、幼馴染の二人。

まあ、対談と言うよりは、亀岡女史の質問にそれぞれが答えるという感じだったが、昔の大阪の話、辛うじて新町に遊郭が残っていた時代の風情など、興味深い話を多く聞けた。

とにかく二人の話は「なるほど、そうやなぁ」の連続。「なるほど」の一つとして、咲さんがこんなようなことを言っていた。「大阪弁が廃れたのと同様に『江戸弁』も廃れた。これはテレビの『銭形平次』がきっかけ。(大川)橋蔵さんが時代劇から『江戸弁』を消した」と。「あ、これそうかも!」と思うな。昭和30年代の、CSなんかで放映してる「東映時代劇」の言葉と、テレビの時代劇の言葉って、違うもん、明らかに。

ニザさまのお言葉。「大阪より東京の方が、文楽も歌舞伎もお客の入りがいい。大阪も東京みたいに毎月、歌舞伎が打てるようにならなあかん」と。そこは、アタシも頑張ってるんですけどね…。その点については「今日のお客さんが、次に文楽、歌舞伎に来るときは、10人くらい連れて来てもらわなww」とか言って、客席の笑いも誘うが、切実でもあった。

他にも芸のことなんかで「あ、そういうことか!」みたいな話の連続だったが、劇場を出ると同時にほとんど忘れてしまった(笑)。ま、そんなもんよ。こういうのを、文楽劇場は次の秋公演の番付(公演パンフ)に、ちゃんと再録してくれなあかんと思うな。こういう貴重な対談は、必ず文字として残しておいてくれ。頼むわ。

☀☀☀

若干落ち着くかと思ったら甘い。まだまだ夏の日差しは「今年の夏は怪しかりけるー!」と叫びたくなるほど。さっさと日本橋駅の地下へ潜る。さ、次は秋の公演。第一部が『蘆屋道満大内鑑』と『桂川連理柵』。第二部は『鶊山姫捨松』と『女殺油地獄』。先般、「行かない公演があってもいいかなとも思う」なんてさらっと記したが、「そうはさせまい!」とばかりに、好きな演目を並べてきはった(笑)。はいはい、行きますよ、心配しはらんでも(笑)。第一部は落語マニア必聴の二本立て。例の「親じゃわい」(笑)は、咲さんでたっぷり聴けまっせ!

(平成30年8月18日 日本橋国立文楽劇場)



 


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