【御朱印男子 10】東光山真珠院龍蓋寺

御朱印男子
東光山真珠院龍蓋寺(岡寺)

「龍蓋寺ってどこやねん!」と、野次の一つも飛んできそうだが(笑)、「飛鳥の岡寺」と聞けば、「ああ、岡寺ね、厄除けのお寺ね」「石楠花のいっぱい咲くお寺ね」って知っている人が案外と多いはずだ。なにせ「日本最初の厄除け霊場」として名をとどろかせる岡寺である。小生、別に厄年ではないけども、厄が明けてなお、この身に次々と降りかかる災難をなんとかしてもらおうと、まだ桜のたよりも届かない春先のある日、いそいそと岡寺へ参じた。参じたのは春先、多分いまごろ(6月半ばまでくらい)は、石楠花の最盛期だろう。花鳥風月を愛でる人は是非!

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このマークがシンボル

近鉄南大阪線は橿原神宮前駅前から、明日香村が運行する「赤かめバス」に乗り込み、目的地を目指す。この「赤かめバス」は、近鉄橿原神宮前駅から近鉄飛鳥駅の間をぐるりと一周、 明日香村の有名な観光スポットを巡ってくれるので、非常に便利。岡寺はもちろん、飛鳥大仏の飛鳥寺、石舞台古墳、甘樫丘、高松塚古墳、キトラ古墳などなど、歩きもレンタサイクルもええ加減しんどいって世代には、非常にうれしい存在。利用が少ないと将来的には運行停止もありうるってから、どんどん利用しよう。お得な乗り降り放題のフリー乗車券もあるので、効率よく飛鳥を回りたい。

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岡寺前バス停。30年近く飛鳥に行ってないが、その間に道がこんな風になっていて、相当ビックリ!

DSCN0923-1「赤かめバス」の岡寺前停留所の目の前に、この鳥居が見える。ここから岡寺までおよそ15分。のどかな飛鳥の山村を抜けて行く。この鳥居、多分、神仏習合の名残だろうな~って通り過ぎる人がほとんどだと思うけど、常夜灯に刻まれた文字をよ~く見てみよう。ほら「八幡宮」って刻まれている。ってことは…。今回の御朱印の旅、この鳥居の謎解きも楽しみの一つになりそうな予感。

DSCN0884-1「ええ感じやね~」と歩を進めるうちに、仁王門に到着。ここからは入山料として400円を納める。

仁王門は国の重要文化財。慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財は山ほどある明日香村だが、建造物ではこの仁王門と書院だけ。正面両脇には仁王像が安置されているが、うっかり写真を撮っていない。いずれまたの機会に。仁王門全体がゆがんだり傷んだりしてきたため、昭和42年(1967)から1年間かけて大規模な解体修理が行われた。その時の調査でこの仁王門は、ほとんどの部材が古材を転用したり、作り替えられたりして使用されている事が判明。これらの古材は文明4年(1472)7月21日の大風で倒壊し翌年、再建に着手したが完成にいたらなかった「塔」のものであると思われている。庇の四隅上にはそれぞれ阿獅子・吽獅子・龍・虎の彫刻物があしらわれた珍しい形態。

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四隅上の阿獅子か吽獅子か龍か虎。見た目で、龍ではないとは思う…。

仁王門をくぐり、さらに石段をのぼりつめると、寺の境内が広がる。

DSCN0889-1手前の建物は「開山堂」。阿弥陀三尊を安置。多武峰妙楽寺(現・談山神社)より移築されたもので、元は護摩堂であったと伝わる。平成16年から約2年がけの解体修理を行った際に、建立年代と思われる「寛政9年」の墨書きが発見された。また移築当時の棟札も発見され、明治4年に談山神社から移築されたことが明らかになった。この前年の明治3年、廃仏毀釈のきっかけとなる「大教宣布の詔」が発せられており、その影響で岡寺に移築されたと考えられている。

そして、奥の建物が「本堂」。奈良県指定文化財。文化2年(1805)の上棟で、すべての完成迄に30年以上かかった事が判明している。4mを超える本尊が安置されている。

【11】東光山 真珠院 龍蓋寺(とうこうさん・しんじゅいん・りょうがいじ)

真言宗豊山派。本尊は如意輪観音。およそ1300年前に天智天皇の勅願によって奈良時代の法相宗の祖、義淵(ぎえん)僧正が創建したと伝わる。
岡寺が義淵による創建とする最も古い文献は、醍醐寺本『諸寺縁起集』の「龍門寺縁起」(龍門寺=吉野郡にあった寺)で、龍蓋・龍門両寺は義淵僧正が国家隆泰、藤氏栄昌のために建立するところであると記されている。また「龍蓋寺」という寺名は天平勝宝3年(751)の正倉院文書が初出だが、それ以前の天平12年(740)7月8日付けの正倉院文書の中でも龍蓋寺所蔵と書かれた仏典があると記されている。

義淵が法相宗の祖というわけで、岡寺も江戸時代までは法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出していた。室町時代には、興福寺別当が岡寺別当を兼務していた。江戸時代以降は、長谷寺の末寺となり今日に至る。

正式名称の「龍蓋寺」という寺名は、飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた龍を、義淵の法力で池の中に封じ込め、大きな石で「蓋」をし、改心をさせたことに由来すると伝わる。「龍に蓋をするから龍蓋寺、バンザーイ!、バンザーイ!」って、大喜利のような…。改心し善龍となった龍は、今境内の「龍蓋池」に眠る。ああ、これも写真撮り忘れた(笑)。

また悪龍がもたらす「厄難」を取り除いた事が、現在まで脈々と続く、岡寺の「やくよけ信仰」の始まりの所以の一つでもあるとのこと。

池のそばには、悪流退治する義淵僧正のレリーフが
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本堂。四天王寺の六時堂と同じ「びんずるさん」が安置されていて、病んでいる部分を撫でて拝めば、あら不思議や、病気は治ってしまう…と信じられている

ご本尊の如意輪観音は、「塑造・如意輪観音座像」と「金銅・如意輪観世音菩薩半跏思惟像」の二体がおはしまする。いずれも国の重要文化財である。

「塑造・如意輪観音座像」は、弘法大師が日本、唐・天竺の土を使って造られたとの伝えあり。高さは4.85mと大きく、如意輪観音の最古の遺例として重要視されており、塑像=土でできた仏像としては日本最大である。また、「日本三大仏」の一つとして有名。日本三大仏とは「銅像:東大寺毘盧遮那仏(奈良の大仏)」「木像:長谷寺御本尊 十一面観世音菩薩」「塑像:岡寺御本尊如意輪観音菩薩」を指す。

古来より「やくよけの観音様」として信仰を集めているのが、こちらの如意輪観音さんである。

一方の金銅・如意輪観世音菩薩半跏思惟像」は、銅造で31.2cmと小さい。当初は岡寺の本尊物だったが、弘法大師が「塑造・如意輪観音座像」をお造りにたった際に、その胎内に納められたと伝わる。現在は京都国立博物館に寄託されており、寺には御分身がおられる。

さて、本堂のあるエリアから東に向かって行くと、右手に石塔が見えてくる。昭和元年(1926)の建立ということだけで、大して由緒来歴はないようだが、形が非常に美しい。

さらに進んで、奥の院を目指す。道すがら、お地蔵さんや石仏にも出会う。こういうお姿に接すると「ああ、飛鳥に来てるんやな~」と実感する。飛鳥でなくても、どこにでもおいでになるのにねぇ、不思議なもんだわな、こういう感覚って。

そして奥の院に到着。えっちらおっちら山を登る、難行苦行の末、ってわけでもないので、「奥の院」って感じでもないのだが。突き当りにはお稲荷さんが御鎮座。特に、いわれ等はないようで、これは古いお寺によくある「鎮守社」であろう。

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そして右手に見える階段を上がっていくと、正真正銘の?奥の院「弥勒の窟」といわれる石窟堂がある。内部には、弥勒菩薩像が安置されている。中まで入ったが、写真はご遠慮した。ただ、他の参拝者はみなさん、写真撮り放題だったけど…。あんなんして、ええんかな? 弥勒さん怒りはれへんかな? と、ドキドキしている小生であった。

この奥に、弥勒菩薩がおいでになった。けっこうみなさん、ズケズケと入って行って写真撮影するんですね…。それくらい図々しく生きなけりゃあかんのかな、やっぱり…。

さて、いろんなことに思いを巡らし(笑)、義淵僧正の廟塔と伝えられる宝篋印塔や、お大師さんゆかりの厄除の水が涌く井戸「瑠璃井」などを見学しながら道を下って行き、「三重宝塔」にたどり着く。

非常に美しい三重塔である。軒先ごとに琴が吊るされてるの、見えますか? 軒の琴、全国的に見ても復元されている例はないらしく、なんか「古代~!」って感じでいいね。

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古来、三重宝塔は旧境内地に建っていたが、文明4年(1472)7月21日の大風により倒壊。翌年から早速に勧進が進められるも、完成することなく、やがて解体され、上述のように現在の仁王門や楼門に転用される。創建当時の詳細は不明だが、鎌倉時代初期に岡寺に三重塔があったことが『諸寺建立次第』に見られる。昭和59年(1984)、弘法大師千百五十年御遠忌を契機に復興に着手、昭和61年(1986)に514年ぶりに再建。平成6年(1994)からは、扉絵・壁画・琴などの作成に着手し、平成13年(2001)に完成。

特に軒先に吊るされた琴は毎年10月第3日曜日の開山忌には、扉絵・壁画が公開されている。

この三重宝塔が建つ高台からの風景がまた素晴らしい。明日香の里を望むことができる。なんとも幻想的。これまた「古代!」って感じやね。

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さて、岡寺を出て、来た道をそれて右側へ行くと、治田神社に出る。灯篭には「八幡」の文字があることから、元々は「八幡宮」だったとのこと。ってことはだ、冒頭に記したバス停前の鳥居の謎、ここで解けたではないか! あの鳥居は、この治田神社の「一の鳥居」だったわけだ! さらに、ここは案内看板によれば「岡寺跡」とのことだ。


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境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。境内には礎石もいくつか残っており、古い瓦の散布もみられる。伽藍配置については不明だが、岡寺所蔵の寛文年間(1661~1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂、塔の跡地が描かれている。先述の三重塔もここに建っていたのだろう。寺跡は平成17年(2005)に「岡寺跡」として国の史跡に指定。(鳥居の下の人は、決して心霊写真ではありません、子供連れのお母さんでしたからw)

岡寺だけで、これだけ見どころや学ぶ事柄が多いのだから、飛鳥という場所は、本当に行くたびに色々な発見や気づきに巡りあう地である。一日でめぼしいところをぐるっと回るってのもいいが、一カ所をじっくり時間をかけて見てみて、飛鳥の魅力にどっぷり浸るのも、また面白いと、今回、気づいた次第。


<墨書>
平成廿九.三.丗
奉拝
厄除大悲殿
岡寺
<朱印>
西國第七番
宝印は蓮華座に火炎宝珠を置く。宝珠の梵字は特殊な形だが、本尊が如意輪観音なので「キリク」の異体字?
西国三十三所草創1300年記念の特別印
左下に龍蓋寺

<ところ>奈良県高市郡明日香村岡806 <あし>近鉄南大阪線、吉野線、京都線橿原神宮前駅東口または吉野線飛鳥駅前より赤かめバスで岡寺前下車、徒歩20分 *吉野線の岡寺駅からのバスはない。徒歩では健脚で1時間強となるからおすすめしない

(平成29年3月30日 参詣)



 


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