【上方芸能な日々 文楽】夏休み文楽特別公演<名作劇場>

人形浄瑠璃文楽
平成二十八年夏休み特別公演 <第二部 名作劇場>

文楽の夏休み公演、第2部は毎年「名作劇場」として、人気の夏芝居を中心に大人向けの作品を上演するんだが、『伊勢音頭恋寝刃』なんてしょっちゅう観ている気がする。まあ、好きだからそれでもいいんだが…。そしてもう一つは国立文楽劇場では14年ぶりに上演の『薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)』。過去に観たことあるようなないような…。そんなわけで、見慣れた『伊勢音頭』はもはや粗探しの境地で、一方の『累~』はまっさらな気持ちで見物に臨むことになった。公演2日目に観てどっちの演目も「はて?」って感じてしまったので、終盤にもう1回観た。「はて?」は多少は薄らいだが、結局今もな「はて?」のままなのである。

薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)

■初演:安永7年(1778)閏7月 歌舞伎『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』として江戸中村座
同8年3月、達田弁二、吉田鬼丸、烏亭焉馬が浄瑠璃化、江戸肥前座で
後に累のくだりが独立して『薫樹累物語』として上演されるようになる
■作者:歌舞伎『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』=初世桜田治助、笠縫専助合作
人形浄瑠璃=達田弁二、吉田鬼丸、烏亭焉馬

 

Ckjh6asUYAA0MzP「豆腐屋の段」
絹川谷蔵の松香が極上だった。ここらが掛け合いのシンにおれば、「文楽を観に来た」のではなく「聴きに来た」という気にさせてくれる。累を語る三輪も持ち味が出ていたし、その兄・三婦の津國も四角張った芸風が三婦の人柄を表すに適任だったなと聴く。清友の三味線が床全体をよく統括していた。

傾城の高尾が殺されるも、兄の三婦は殺されたことを隠し病死だということにして、ひっそりと供養をしていた。そこに、絹川谷藏が

「人に追はれ難渋の者、暫くお匿ひ下されい」

絹川、妹の顔を見て思わず高声で「ヤこなたは」。この絹川こそが高尾殺しの犯人。累は、かつて絹川に危ないところを助けられたことがあり、再会した谷蔵と夫婦になりたいと。三婦も絹川の高尾殺しに至った経緯を聞き、その忠義心に痛く心動かされ、夫婦になることを許すが…。高尾の怨念によって、累はすっかり顔を崩されてしまう。相好のみならず、「ちんばひよつこり奥へ入る」とあるから、足もやられてしまったのだろう。ああ、怖い怖い。このあたりはけっこう「ひゃ~~!」って展開だった。

人形は、絹川を玉男、累を和生、三婦を玉志で実に適材な配置だった。

「埴生村の段」
下総の国は埴生村で、絹川谷蔵は与右衛門と名乗り、累と暮らしていた。器量自慢する累を「心の内の不憫や」との思いを悟られまいとする絹川は

「ヤコレ気遣ひのきの字に長点かけたりこちの弁天、船饅頭の取り舵も、今宵の風まん取りかけるぞ。舟玉清めてコレ待ち給へ」

などとエロトークで累の気をはぐらかす。文楽のこういうところが好きだ(笑)。
土地のならず者の金五郎が現れ、与右衛門(絹川)の主君・足利頼兼の許嫁である歌潟姫を吉原に売り飛ばそうとしていることを知る。与右衛門は歌潟姫奪回のために「嫁にしたいので譲ってほしい」と持ちかけるも百両を要求され、その調達に悩みつつ累には借金の返済と偽る。累は、夫の危機を救うため女郎屋に身を売ろうとするが、女郎屋の亭主にその容貌を

「ぐるり高のちよつぽり鼻、顔にべつたり痣があって、しかも出歯で横からコウ禿が見へて、その代わりにちんちんちんばとけつかるわい、ハヽヽヽ」

と嘲笑される…。
まず「中」を咲甫、團七で。團七師匠の三味線については、小生ごときが申し上げることは何もなくいが、咲甫についてはちょこっとな。ここの聴かせどころはクドキだと思うけど、初回に聴いた時も二回目も淡泊な印象。耳あたりは至っていいのだけど、嫉妬心、執着心が聴く者の身にねっとりへばりつくような感覚には至らなかったかな…。

「奥」は千歳、富助。こちらも富助師匠の三味線は絶品。安心して我が身を預けることができる。そこで千歳はんは、となるわけで…。初回は「あれあれあれ??」って内に終わってしまって、逆にそこに「千歳太夫ってこうよなあ、いつも」って感じだった。何と言うか…。客席まで唾飛ばしながら「私の渾身の語り、どうですか、お客さん!」みたいなねえ(笑)。で、二回目はどうか。もちろんその「どうですかお客さん!」ってのは芸風としてどうにもこうにもならない部分だから放置しておくとして、夫と同じ名の絹川(=鬼怒川)への身投げを思い立つクドキが初回とは雲泥の差で、ここに「LIVEで観ること聴くこと」の面白さを再認識した次第。翌日もこう聴かせていたのか気にもなるが…(笑)。

しかし累さん、身投げするのに鎌を持って行くというのが、もう恐ろしいったらありゃしない。

「土橋の段」
「中」を靖と錦糸で。「靖はいいね~」と言い始めて2年ほどになるかな?「靖はさらにいいね~」と即座にならないのがこの世界の厳しいところ。それでよし。そして「奥」の呂勢、清治。呂勢も靖の前に「呂勢はいいね~」だったが、もう「いいね~」を言うまでもなく、いいのが当たり前になった。これは呂勢自身の研究熱心さ稽古熱心さもあるが、清治師匠とずっとペアで来たことが非常にプラスになっているのは誰の眼にも耳にも明らか。となれば、これから靖には10年計画で不動の相三味線が必要になる。それによって三味線さんは出番時間が減ってしまうし、そのためのフラストレーションも溜まってしまうかもしれないが、文楽全体の長期的な指針の一つとして、若い本格派太夫の育成に尽力してもらうしかないだろう。一にも二にも文楽は太夫次第である。

この段終盤に、絹川と累の立ち回りシーンがある。何の悲しみで夫婦で斬り合いをせねばならなくなったのか…。高尾の怨念と累が生来持ち合わせた嫉妬と執着のなせるところである。この物語の「怖さ」はそこに尽きる。立ち回りシーンでの御簾内から鳴るメリヤスがテンポよく響き、立ち回りを盛り上げる、観客も盛り上がる。大いに盛り上がったところで…。

「敵同士の前生(さきしょう)から結び合はした悪縁か」

と止めの鎌を落とす絹川。「う~ん」と唸る客、「はぁ~」とため息する客、ただただぽか~んとその成り行きを見つめる客…。それぞれに怖さ以上の「哀れ」を感じたラストシーンだった。

伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)

■初演:寛政8年(1796)7月、大坂角の芝居で歌舞伎として
*同年3月、伊勢古市の遊郭油屋で酔った医者が数人を殺すという事件がすぐに脚色される
天保9年(1838)、大坂、稲荷神社文楽座で人形浄瑠璃として
*文楽における現行の演出は明治18年(1885)7月、彦六座で上演されたもの
■作者:近松徳三

 

NEW_New_D案-3校-3-校了「古市油屋の段」
津駒、寛治

勝手自論だが、伊勢音頭は万野の出来次第と思っている。そこで津駒太夫が適任だったかどうかは、小生の中で出色の万野が住さんだったことが災いして、どうしても住さんとの比較になってしまうのが、住さん以降の太夫にはいささか気の毒ではあるけど、住さんに及ばぬならせめて「これが俺の万野のやり方」と言える太夫が出てきてほしいもの。その点では非常に物足らなかった。

二つ目にはお紺ののっけからのクドキだが、ここは思ったよりもすんなり耳に入ってきて、逆に「おやおやこれは」と思ったもの。蓑助師匠の絶品のお紺に助けられもしたが、こと、お紺に関しては愛想尽かしも含め満足ではないが不満は無かった。ゆえに、万野の「あ~あ、やっちゃったなあ」感が強調されてしまい、初回も二回目も残念な油屋となってしまった次第。何よりも客席全体が「油屋って、もっとおもろなかったかえ?」みたいな空気だったのが、残念。

「奥庭十人斬りの段」
床本に残したメモにわざわざ赤字で「咲さん、まったく精彩なし」と傍線まで引いてある。それがすべてである。さすがに公演終盤の2回目で聴いた時には「さすが!」とうならせてくれるものは多くあったけど、総じて今公演の咲さんは精彩を欠いていた。休演明けの最初の公演がこの酷暑の中であったのは、体力的に相当きつかったとは思われるが、正直、ショックだった…。もっときつい書き方したメモが残ってるが、それはメモだけのことにしておく。

★★★

大入り袋が出て、そいつはよかった万々歳。でも、「大丈夫かな、文楽…」という思いが一層深まった夏休み公演だった。秋の「志渡寺」に期待したい。


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