【上方芸能な日々 素浄瑠璃】第18回 文楽素浄瑠璃の会

素浄瑠璃
第18回 文楽素浄瑠璃の会

恒例の素浄瑠璃の会へ行って来た。

「あれ?パンフレットって毎年有料やったかな?」などと思いながら、350円で購入。内容は、作品紹介と鑑賞のポイント、出演者コメント、床本のごくシンプルなもの。まあ、無いよりは有った方が断然いいからね、こういうのは。—しかし350円と、たばこより安い値段なのに、「タダでくれるんとちゃうんかえ?」などと思う自分は、なんとケチくさい人間なんだろうと、今思うと恥ずかしい(笑)。

お座席人形なしで、太夫の語りと三味線で物語は進行するので、浄瑠璃を聴いて脳内にその光景を「想像」する力が求められるので、多分、上級者向け。落語や講談の「語り芸」とはちと違うし、浪曲ほども親切ではない。太夫が語るのは当然として、三味線も「語る」から厄介。でも、通常の人形浄瑠璃鑑賞の回数を重ねてくれば、どこかの時点でぜひともトライすべきフィールド。

なんて、偉そうなこと言うが、ついて行くのが精一杯というのが実情。でも、何回か来ている内に、「ああ、なるほど、文楽は「観に来る」もんじゃなくて「聴きに来る」もんなんやな」というのが、わかってくる。こうなると、俄然文楽鑑賞の幅が広がって、なんとか自分の祖父母の世代の「文楽観」に近づくことができたような気分になる。生きていれば100歳は優に超えている 祖父母の世代が、文楽を観に行くと言わず「浄瑠璃聴きに行く」と言ってた 理由がわかったような、わからんような…。

まあ、小sujyoururi難しい講釈はよろしい。聴きに行って楽しけりゃそれでOK。「こりゃ、さっぱりわからんわ」も大いにアリ。わかりたくなりたけりゃ、人形芝居の回数を増やし、わからんでもかまわんと思うなら、それもまたよし。

なぜ、上述のような講釈をダラダラ述べたかというと、今回聴いた演目は全て過去に人形芝居で観たことがあるので、聴いていて情景がすんなり頭に浮かんだからである。

今回は稀曲、珍曲の類は無く、通常の文楽公演でわりとよく観る演目ばかり。これは親切と言えば親切、拍子抜けと言えば拍子抜け。この辺の演目の選定は結構難しいところだろう。

嫗山姥(こもちやまんば) 廓噺の段

■初演:正徳2年(1712)、竹本座
■作者:近松門左衛門
*『清原右大将』という古作の金平(きんぴら)浄瑠璃を基に、謡曲『山姥』の内容を利用しつつ、同時代の要素も加味。
*全五段時代物。
*現在では二段目「廓噺の段」だけが上演される。
*近松作の浄瑠璃の多くは、後世に復曲、改作されたものだが、「廓噺の段」はほぼ原作通りで語られる貴重な伝承曲。

 

太夫:豊竹英大夫  三味線:鶴澤清介 ツレ・鶴澤清公
英大夫は初役、清介は3度目のチャレンジ。
聴きどころは「しゃべり」の個所。岩倉大納言兼冬公の館に招き入れられ、得意の小歌を披露していた煙草売り源七(実は坂田時行)の声を聴いて、「これは自分を捨てたあいつじゃないか!」と、流浪の遊女八重桐が聞えよがしに身の上を語る場面。大袈裟な表現も多く、笑ってしまうような内容。歌舞伎の長科白を移したもので、遊女の八重桐という名前も、実在の女形役者萩野八重桐にちなんでいるという。
こういう場面は英大夫の得意とする場で、愉快に聴けた。清介の三味線も冴え冴えで、居眠りを許さない(笑)。

段切はツレ三味線が入る。今回の演目、すべてツレ弾きが入ったのだが、いずれも若い弟子が入っており、これはいい趣向だと思った。3人とも注目している若手なので、余計にそう感じた次第。

その段切の奇想天外荒唐無稽な展開は、ファンタジックでもありSFチックでもあり、よくまあこういう筋が思い浮かぶなあと感心することしきり。歴史上の人物、ここでは坂田金時になるが、その誕生譚には、神秘性なんかをもたらせるためには、必要なんだろう。

義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 川連法眼館の段

■初演:延享4年(1747)、竹本座
■作者:二代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作
*全五段時代物。三大名作(他に『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』)のひとつ。
*「川連法眼館の段」は、通称「四の切(しのきり)」と称される。本来は四段目の中の後半だったが、「千本桜狐の段」として単独でかけたところ好評で、切場に相当する場面に昇格する。

 

太夫:豊竹咲大夫  三味線:鶴澤燕三 ツレ:鶴澤燕二郎
今年、没250年になる二代目竹本政太夫の代表曲のひとつ。
昨年の今公演では、脳梗塞で病床に伏していた燕三が、今年は見事に復活して、ここに居るのがまことに嬉しい。「撥は持てても、メリヤスひとつ弾けず絶望していた」ところ、咲大夫の「待ってるで」の一言を励みにリハビリを頑張った。咲さんとの信頼関係、本人の頑張りはもちろんのこと、入門したばかりだった若い弟子(燕二郎)の存在もまた、復活への強い励みになったことは想像に易い。

人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台では、佐藤忠信から源九郎狐への早変りや宙乗りなど「ケレン」が人気の段ではあるが、この素浄瑠璃ではそんなことはできないし、人形芝居や歌舞伎においても、この段が観客に訴えるべきものは、源九郎狐の親狐に対する情愛であるから、むしろ素浄瑠璃で聴くべき場なのかもしれない。

狐詞も聴きどころ聴かせどころで、「桓武天皇の御字」を「カーンムテンノウノ」とか、「ハツネ」の「ツ」の音を呑んで、喉で「クッ」と鳴らすなどの工夫も聴き逃せない。これが大袈裟になるとそれこそ落語の『猫の忠信』になってしまうから(笑)。…いくらなんでもそんな太夫はおりますまい(笑)。

ここもツレ弾きで燕三の弟子、燕二郎が登場。彼は研修生時代からとても気になる存在。師匠の教えが行き届いていると見えて、太夫の語りで言いかえれば「ハキハキした」いかにも若手らしい弾きようが非常に好ましく感じる。

傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居の段 

■初演:宝永5年(1708)、竹本座
■作者:近松門左衛門
*上、中、下三巻からなる時代物。
*吃の浮世又平が主人公の場面なので、通称「吃又」で有名。
*今日の伝承のもとになっているのは、宝暦2年(1752)竹本座初演の改作『名筆傾城鑑』。

 

太夫:竹本津駒大夫  三味線:鶴澤寛治 ツレ:鶴澤寛太郎
津駒大夫は初演。寛治師匠は、父であり師匠である六代鶴澤寛治の得意演目で、いわばお家芸。縁を感じるのは、津駒大夫の師匠である四代竹本津大夫は寛治師匠の義兄であった、その四代津大夫が48年前に地方巡業で語った際、三味線を勤めたのが、初演。

「吃音には”引き”と”突き”に二つの技巧がある」という点が聴きどころのひとつ。又平は原則としては吐く息(突き)で語るとされる。が、素人には聴いて分別できるものでもなく、いくら耳を凝らしたとて無理じゃないか…。もちろん、混ぜて使わないようにせねばならないのだから、「ああ、こういうのを”突き”と言うんやな」と、強引に納得するしかない。聴き巧者の人は違うんだろうけど、小生は、生涯かかってもその域には達しないでしょう(笑)。

河内地」と言われる愁いある語りも特色のひとつ。又平とは対照的に闊達な「しゃべくり」。しかしその後に女房が切々と訴える場面との転換、ここらあたりから河内地になる。ちなみに河内地は、初代豊竹河内太夫の曲風。

段切にはツレ三味線で寛太郎が入って、盛り上がる。彼もまた期待の若手。若手と言いながら、子供の時からやってるのでキャリアは中堅に差し掛かろうという段階。盛り上げる術を知っている。大事な場面を任されるのも、秒読み段階かなと期待。

例により、大阪市立大学大学院文学研究科の久堀裕朗准教授の解説や鑑賞のポイント紹介などが演目前に入るので、理解の手助けになる。

今回は、「聴いて想像する」という、知的苦労が無いことでリラックスして聴けたが、欲を言えば、ひとつくらいは毎回、稀曲、珍曲を聴かせてもらいたいなあというのもある。そいう点では、去年の『北条時頼記(ほうじょうじらいき)』はよかったなあ。やる方は大変やろうけど。

(平成27年7月4日 日本橋国立文楽劇場)


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