【上方芸能な日々 文楽】通し狂言『伊賀越道中双六』第2部 2回目観劇

人形浄瑠璃文楽
平成25年度(第68回)文化庁芸術祭主催
公益財団法人文楽協会創立50周年記念 竹本義太夫300回忌
平成25年11月公演  <第二部>

「沼津」で住さんにもういっぺん泣かされたいと、幕見ながら行って来たからには、今度は「岡崎」で嶋さんに感動したいわけで、行ってきました文楽劇場。今回は幕見じゃなくって、仇討成就まで見届けてあげやしょうと、夜の部を通しで二等席で観劇。つまりは後ろから2列目。

IMG_0767.jpgblog例の「お土産」も再びゲット!まあ、二つ持っていたからどうと言うわけじゃないけれど、30年後くらいに高値で売れるかもわからんし…(と、動機はよろしくないし、あと30年生きてるかどうかもww)。

いくつか前のエントリで、昼の部は動員上々でも夜の部が芳しくない…、なんて言ったけど、中日以降の後半戦は夜の部も盛り返している模様で何より。この日の夜の部は、ざっと観て85%くらいの入り。もちろん「大入り満員」の連続が理想だけど、平均して75%以上入っていれば、どっかのだれかから動員数についてケチをつけられることも無いだろうにね。

しかしねえ、客に芝居以外の余計なことを考えさせるのは、やっぱり、自治体はもちろんのこと、劇場も協会も舞台人も良くないなあ。観劇に没頭できる環境を整えてもらわないとな…。

さて、「伊賀越」の後半部。

チケット購入時、横の窓口で購入していたご婦人が「昼の部だけのつもりだったけど、やっぱり後半が気になって仕方ないのでねぇ、おほほほ」なんて、窓口のおねーさんに言いながら、買っていた。黙って購入すればいいのに(笑)。でも、そう思ってしまうほどに、この『伊賀越道中双六』というのは、非常によくできたお芝居だと、観るたびにその思いが強まって行く。特に夜の部を観ると、一層ね。

藤川新関の段
引抜き 寿柱立万歳
後半、とりわけ次に控える「竹藪」から「岡崎」は、重いシーンが波状攻撃でくるので、まずはパッと明るくご陽気に。と言いながら、「運命的」とも言える志津馬とお袖の出会い、奴の助平からまんまと通行切手をかすめ取って、関所を抜ける志津馬という具合に、「岡崎」への伏線がほぼ整う。

で、やっぱりここは、文雀師匠のお袖。志津馬に一目ぼれした仕草などは、人形に惚れてしまう。

竹藪の段
御簾内ながら存在感バッチリだな靖大夫、と前回評したけど、もちろん今回も。ここは人形で政右衛門(玉女)が「梨割り」を見せてくれるなど、独壇場だけど、それに負けない迫力があって、非常によかったなあ。今公演で特筆すべき技芸人のひとりは、靖大夫と記憶しておきたい。

岡崎の段
物語後半のクライマックスである「岡崎」は、観れば観るほどに解釈と鑑賞が難しく感じて、地味で悲惨で残酷な段でもある。まあそんなこともあってか、名場面でありながら、「沼津」の見取り(単独上演)の多さに較べると、「岡崎」の見取りはほとんどない。要するに、しんどいのかもね、観客は…。
「そこをそう感じさせないように、どう語ってどう弾いてどう遣うかが、三業の腕の見せどころやないかえ?」という声もあろうかと思うが、そんな簡単なハナシじゃないよ、ここは。

切羽つまり、我が子・巳之助(おぎゃ~おぎゃ~と泣く乳飲み子だよ!)をグサリと殺さにゃならぬ事態の政右衛門、その気持ちはいかようなものなのか? 観てる方としては「ありゃ、やっちゃったよ、この人!」でいいのかもしれないけど、その巳之助をなんとか夫の手に渡したい、そして一目、夫に会えればとの思いのお谷さんが、これはあんまりにも気の毒すぎる…。

「中」を芳穂&清馗、「次」を呂勢&宗助とつなぎ、いよいよ嶋さん登場で、割れんばかりの拍手、「待ってました!嶋大夫!」の掛け声もあっちゃこっちゃからかかるけど、それは非常に重いシーンの幕開けでもあり…。ねえ。

睨んだ眼うつかりと、細目に覗く夫婦の縁、思ひがけなき女房お谷、
『ハツ』とびつくり差し合はせ、包む我が名の顕れ口、悪いところへ切りかけた煙草の刃金、胸を刻むと人知らず

仇討の筋を通すべく離縁した女房のお谷が、自分を追ってここまで来た姿…。不憫であるが、家に入れたら己の正体がバレちゃうからそうはいかない。「煙草の刃金、胸を刻むと人知らず」が、政右衛門の気持ちが、エッジの立ったまさに「刃金」のようなもので切り刻まれてゆく表現。やっぱりここをそんな切り立ったエッジを感じさせられるのは、嶋さんほどの、芸と人生のキャリアを積んだ太夫だからこそと感じる。

さらにこの後の、回る糸車に合わせて弾かれる三味線(富助)の「きゅーん」と、うなるような音色、「糸繰唄」って言うんですか、これ? ここが下世話な表現すれば、「心がきゅーきゅー鳴っている」苦しさを醸し出して、かなり切ない。その切なさは、お谷の

「…未練な事ぢやが私も、この子を夫に渡すまでは生きていたい生きていたい、死にともない」

で絶頂になるんだが、結局、我が子を手にした夫が我が子を殺害することになる…。

切場終盤は圧巻。もう、嶋さん、汗だく、顔面真っ赤で渾身の「タテ詞」で一気に。

「コリヤ何も言ふな。敵の在所手がゝりに取り付いたぞ。この屋の内へ身どもが本名、けぶらいでも知らされぬ大事の所、そちが居ては大望の妨げ、苦しくとも堪えて一丁南の辻堂まで、這うてなりとも行てくれい。吉左右を知らすまで気をしつかりと張り詰めて、必ず死ぬるな。サア早ふ行け行け」

”仇討の筋を通すべく離縁した”とはいえ、その夫婦愛には変わりなく、「夫の詞は千人力」で生きようとするんだけど、気になるのは我が子のこと。「坊はどこへ」とお谷。「コレヤ気遣ひすな、坊主は奥で寝さして置いた。…」。多分、この時点では、政右衛門も我が子を殺す事態になろうとは思ってなかったんだろうな…。いや、ある程度は予感していたのか…。このあたりの解釈、難しいねえ、実に。

重い余韻がどよ~んと客席に漂う中、「奥」は千歳&團七にて。

きついわ、聴いていて。いえいえ、千歳の語りが拙くてきついんじゃなく、話の中身がきついのでありまする。

赤児の素性が判明し、「やばい!」と思ったか政右衛門、我が子を、それも乳飲み子を一刺しで殺害して、さらには庭に投げつけてしまうという残忍な行為に。そこまでやって敵の懐に入り込んで情報を手に入れねばならぬ「仇討」とは何ぞや? その仇討の火種たる志津馬よ、お前それでいいのか! おい! 政右衛門殿よ、もっと他に手立ては無かったのかえ?

そして一瞬の「涙」を見逃さず、これが政右衛門だと悟る幸兵衛…。このあたりの「攻防」は、見応え聴き応えたっぷり、身を乗り出して集中しているお客も多数。

にしても、我が子を殺めてしまった政右衛門の本心たるや…。幸兵衛は言う。

「…子をひとえぐりに刺し殺し、立派に言ひ放した目の内に、一滴浮かむ涙の色は隠しても隠されぬ。肉親の恩愛に初めてそれと悟りしぞよ…」

そして

「…町人も侍も、変らぬものは子の可愛さ、こなたは男の諦めもあらふ。最前ちらりと思ひ合はす巡礼の母親の、心が察しやらるゝ」

こういうところは、嶋さんで聴きたかったなあというのが、正直なところ。そう、21年前は嶋さんの場だったんよな。でも、次世代の太夫へ継承してもらわねばならないしねえ。「あそこ、千歳がよく聴かせたねえ!」となるように、ホント、中堅、若手の太夫には、稽古を重ねてほしい。でないと、文楽そのものの将来が「きつい」で!

重い、あまりにも重い「岡崎」が終わり、「はあぁぁ」とため息ついて、休憩時間。お客さん達もまだ弁当食べながら、「岡崎」の余韻のままにあるのか、いつもの弁当タイムとは、なんか違う雰囲気。でも、この雰囲気にさせたというのは、「岡崎」がいかによく上演されたかということ。

伏見北国屋の段
この日の英大夫は、聴き心地良し、耳当たり良し、テンポも良し。10日前とは一味も二味も違う。だからライブはおもしろい。人形も敵方一派の林左衛門(文司)、味方一派ではヤブ医者に扮した孫六(玉勢)、瀬川(一輔)がイイ動き。一輔はホントお父さんに似て来たねぇ。

この段、再登場した沼津の十兵衛(和生)が、志津馬らの前に立ちふさがるが、股五郎たちが伊賀を通ることを教えて亡くなる。この十兵衛のすっきりとした性格もまた、『伊賀越』の見どころのひとつかと。その最期に、政右衛門から「オヽ瀬川が事はこの政右衛門、刀にかけて志津馬に添はす」と聞かされ、

「ハヽその一言は呉服屋が冥途の晴れ着のこの十兵衛、またひとつはには千本松原に散る真の親へ孝の道。…」

ここがこの人の性格を表していて、とてもカッコイイと思った。そしてまた、直接仇討にかかわらない人が命を落としてしまう。この犠牲者の数ったらもう…。

伊賀上野敵討の段
前回の観劇記で「志津馬もちょっとは応援してやりたい」みたいなことを書いたけど、思い返せば、和田志津馬が「大序」でへべれけになって、「瀬川さ~ん、ラブ~」になっちゃったから、こんな具合に次々と犠牲者が続出するわけで、一番罪なのは、志津馬やんか!と思うわけです。一番エライ思いしたのは、政右衛門で、そりゃまあ、政右衛門の物語になっても仕方ないよなあ、と。

こっちサイドの人たちはもちろん、敵方の人たちの中でさえも、皆それぞれに物語を紡ぎ、そしてカッコよく散り、カッコよく志津馬をフォローするわけだが、志津馬ときたらもうねえ。

201311bunraku_poster21年ぶりに大阪で通し上演された『伊賀越』は、かくのごとく、見どころ聴きどころ満載で、もう数回観ておきたいと思いつつも、いくら暇人と言っても、そこまで時間とゼニにゆとりがあるわけでもなし、昼の部1回、夜の部2回、「沼津」の幕見1回ということで終わった次第。

観れば観るほど、よくできた芝居であると同時に、その都度に解釈や鑑賞が非常に難しくなってゆく「ゲーム」のような筋展開。よくもまあこんな脚本書けたもんよなあと、感心することしきりでありまする。

次回の「通し」はいつ見れるんかな? それまで俺、生きてるかな(笑)。なんて思うと、実に貴重な舞台を観たのだと思う…。

(平成25年11月23日 日本橋国立文楽劇場)


1件のコメント

コメントを残す