【上方芸能な日々 素浄瑠璃】第16回文楽素浄瑠璃の会

素浄瑠璃
竹本義太夫三〇〇回忌

第16回文楽素浄瑠璃の会

いやはや暑くなりました。

アタクシ、お腹が弱い子なので、外出先で冷たいモノは飲まずに、ずっとホットを注文しておりましたが、最近はもはや、お腹が痛くなったとしても、暑さを一瞬でもしのげるならば、まあエエかと、冷たいモノを注文しております。本日はさっそく難波の地下街で喫茶店を出て、ご不浄へまっしぐらと相成りました(笑)。

さて、暑い日は、劇場や映画館で涼しく過ごしましょう。と、そんなわけでもないのですが、国立文楽劇場へ素浄瑠璃を聴きに行ってまいりました。

「素浄瑠璃」とは、字を見てお察しの通り、「人形の出てこない文楽」であります。「現在では」。なぜ、「現在では」と申しますと、今、読みふけっております岩波現代文庫の新刊『文楽の歴史』(倉田喜弘 著)には、竹本義太夫が「素浄瑠璃」について解説した一文が記されております。

 しやみせんはひきて、あやつりないを云は誤也。実は、しやみせんなしにかたることを素浄るりといふ也。

本来は、三味線も入らない純粋な語り芸を素浄瑠璃と呼んでいたようですが、三味線そのもの発達や技巧の向上などにより、すでに約300年前の竹本義太夫の時代には、現在の形に近い状態を一般的には「素浄瑠璃」と呼んでいたのでしょう。

201307sujoruri_omote今回の上演演目のうち、御所桜堀川夜討(ごしょざくら ほりかわ ようち)<弁慶上使の段>、伊勢音頭恋寝刃(いせおんど こいの ねたば)<古市油屋より奥庭の段>は、おなじみの演目で、とりわけ『伊勢音頭~』は「夏狂言」のひとつに数えられるほどですから、これからの季節、文楽や歌舞伎では上演頻度の高い演目であります。

三つ目の演目箱根霊験躄仇討(はこね れいげん いざりの あだうち)<阿弥陀寺の段>は、「稀曲」のひとつで、今回語る津駒大夫でさえも「文楽の世界に入って44年になりますが、観たことがない芝居です」と言うほどの珍品であります。今回、素浄瑠璃の会へ行ったのは、これがどんなものなのかを聴きたいという興味が、まず何よりでした。

太夫、三味線もお気に入りがズラリってのが嬉しゅうございますね。「堀川夜討」は、英大夫&清介、「伊勢音頭」には咲大夫&燕三、「躄仇討」が津駒大夫&藤蔵と、豪華な顔ぶれ。この面子を見に行くだけでも価値あり、なんて古典芸能オタクは思ってしまうわけです(笑)。

で、注目の『箱根霊験躄仇討』<阿弥陀寺の段>です。

素浄瑠璃ですから、当然聴衆の大半は、人形芝居になったとしてどんな光景か? なんてのを脳内に繰り広げながら聴き入るのですが、そうこうしている内に、アタシのようなボンクラな聴き手は、ついつい睡魔に誘われ、意識があっちへこっちへさ迷い始めるわけですな…。

浄瑠璃と云うのは非常によくできたもんで、そうなりかけた頃合いを見計らったように、三味線弾きの「ハッ!」とか「ホッ!」とか合いの手・掛け声が入って、いよいよ聴きどころに入ってゆくわけです…。っていうのは、勝手な解釈ですが、藤蔵は過去の師匠たちが、当時流行っていた華やかな弾き方や掛け声をしていたのをSPレコードで聴いたので、「その弾き方を目指してみよう」と語っています。そう言うだけに、大変聴き応えのある場面があり、圧倒されました。

そんな三味線に真っ向から「挑む」津駒は、「泣き、笑い、怒りの三人上戸」が登場する前半は、「太夫の力量を聴き、お客さんに楽しんでもらう」という、文楽の常套パターンだと言います。それだけに、藤蔵の三味線と真っ向からぶつかる、汗いっぱいの熱演が、いかにもこの人の語りらしく、さあ、そうなると人形は誰を誰が遣えば面白くなるかな…などと、いろいろと想像をかきたててくれた演目でした。

ちなみに「躄り(いざり)」という表現。敏感な人はビビッと反応してしまうかもわかりませんが、小生が幼少のころ(といっても40年以上昔)には、祖母なんぞは日常的に使ってました。いつの間にか社会から抹殺されてしまいましたね…。今回、漢字を初めて知りました。

あと、「さすが!」と唸ったのは、咲さんの「伊勢音頭」。この演目、「悪の人気」を誇る万野の表現が、憎らしければ憎らしいほど、芝居がエキサイトします。歌舞伎でも同様ですね。その「悪の人気」ぶりを「語り芸」でこれほどまでに表現してくれると、本当に聴きに来た価値がある、ええもん聴かせてもらいました、なんて感激しちゃいますね。さらには「名刀・青江下坂」が「妖刀」になり、人をバッタバッタと斬り殺して行く、なんともいえない「血のヌメリ感」なんかも燕三の三味線との相乗効果で非常に良く伝わってきまして、なるほど「切場語り」とはこういうことやなぁと改めて感心した次第。

落語や講談、浪曲など「語り芸」は、聴き手側の「想像力」にゆだねる芸でもあります。素浄瑠璃しかり。プロモーションビデオのない時代の流行歌もそう。なんでもビジュアルから入ってゆくこの時代、間違いなく人間の「想像の世界を楽しむ力」は退化しています。だからこそ、素浄瑠璃でも落語でも講談や浪曲でも、あるいは朗読でもラジオ劇でも、時々は身を委ねてみて、人間が本来備えているはずの「想像力」を再び呼び起こしてみると、日々の暮らし、少しだけ今よりは楽しくなるかもしれませんよ。

(平成25年7月6日 日本橋国立文楽劇場)


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