【上方芸能な日々 文楽】仮名手本忠臣蔵~その4*旧ブログ

人形浄瑠璃文楽
成二十四年十一月公演 通し狂言 仮名手本忠臣蔵

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国立文楽劇場での『仮名手本忠臣蔵』が大好評である。三連休初日の11月23日は、チケット完売で補助席も出たというから、相当な人気ぶりがうかがえる。さすが「独参湯(どくじんとう)=いつ演じてもよく当たる演目」と言われるだけの「魔力」を持った出し物である。

そんな「満員御礼」の看板が上がった日の前日の22日、今公演3度目にして初めて「通し」、すなわち朝から晩まで一気に観劇した。

午前10時半からの第一部、午後4時半からの第二部ともに客席は8割程度の入り。とは言え、どちらも取りたかった席が取れなかったことからも、人気の程がうかがわれるというもんだ。

公演開始当初、第一部は満席でも第二部は、やや空席もあるという日が多かったみたいだが、日を追うごとに第二部も客足が伸び、とくに公演期間後半に入ってからは、第二部の客足が急激にアップした様子。やはり第一部を見て「こりゃおもろい!この続きも是非見たい!」と思った人が多かったのだろう。

久々の「通し」での観劇。演じる方、舞台裏方もさることながら、「観る方」も相当な体力を要するし、気合も入る。客席の活気が、いつもとは全然違うのだ。
それだけに舞台側にも客席側にも「気を抜く間」は一切ない。休憩時間も一部二部の入れ替え時間もほんのわずかしかない。

それでもまったく疲れを感じさせず、演じる方も観る方も、これほどまでに高揚感を感じることができるのは、なんといっても「作品の力」だろう。

朝の10時半から夜の9時まで、「気を抜く間」「休む間」一切なく、「これが今の文楽だ!」という通し狂言の真髄を、余すところなく見せてくれたと思う。

劇評めいたことは、前回、前々回のアップで触れたとおりだが、前回見たのは公演前半。今回は公演後半ということで、「ノッテきた人」や「あ、ちょっと工夫したのかな?」という場面もあったりする。

そういう一切をひっくるめての「今の文楽」を主張した公演であったと思っている。

一人例をあげると、呂勢大夫だろう。
「山科」での彼は、病気休演の千歳大夫の代役で、切場の嶋大夫の後を受けて奥を語るわけだが、前半聴いたときは「奮闘ぶりはわかるが、所詮、代役。千歳で聴きたいよう~」と思う程度だったけど、今回は小生が聴く印象としては「別人」であった。わずかな期間で、ここまで力がつくのかと、「実戦」のすごさを思い知らされた。

呂勢については、これまでも拙ブログでは誉めたり貶したり、批評の標的にしてきただけに、ネットなどをざっと覗いてみて、「山科」での呂勢を称える書き込みが結構多いのを見ると、嬉しい気分になる。

本筋ではないけれど、鷺坂伴内(三輪大夫)の「入れ事」も気が利いているというか、なかなか「好戦的」というか、これも聴き逃せない。毎回、「日本維新の会」をやり玉にしており、こういうのが一か所あると、客も喜ぶし、寝ていた客も目を覚ますというもの(笑)。

この「入れ事」を含め、七段目は咲さん以下、太夫陣の掛け合いが見事で、人形で魅せる簑助、玉女、勘十郎ら人形陣と、いい意味で火花を散らしているのが、印象深い。

また、日頃は「その他大勢」にすぎない一人遣いの「ツメ人形」が存在感を出しているのもいい。城明渡しを前にして次々と去ってゆく家臣たちは「ツメ人形」で、表情は決して動かないのだが、一人ひとりに「無念」の表情がにじみ出ているように見えてしまうから不思議だ。この「ツメ人形」を見るだけでも涙がにじんでくる。「その他大勢」がここまで観客を引き込むのは、恐らく『忠臣蔵』のこのシーン以外には見当たらないのではないか? そこにこの作品の恐るべき「魔力」を感じてしまう。

この1年、何某の市長による、いわれなき攻撃を受け続けて来た文楽だが、「応援してやろう」という人が多かったのも間違いなく、夏の『曾根崎心中』に続くこの活況があるのかもしれない。しかし、『曾根崎』にしろ『忠臣蔵』にしろ、何よりも「作品の力」「文楽の力」でもって、これだけの動員があったことに、文楽の人たちは大いに胸を張ってほしいと思う。

今後も、文楽は大入り、不入りを繰り返して行くと思う。しかし一方で、文楽にはこんな具合に、作品が世に出て300年以上経過しても、現代の人間を泣かせたり怒らせたり、ときに笑わせたりする。

そういう「変わらないもの」を観客に訴えてゆくのは、公演の宣伝でも事前PR活動でも、またメディアへの露出でもない。ましてや市長との「公開面談」の場でもない。芸人、裏方が公演で魅せる技量以外にないのである。


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