【御朱印男子 22】真言律宗総本山 西大寺

アイキャッチ画像:新緑が心地よい境内に心が和む。さらに隣接の西大寺幼稚園からは園児たちの声が響き渡り、こちらまで楽しい気分になる>


近鉄に踊らされるように開始した「大和十三佛ご朱印巡り」。今回は第二番の西大寺へ。

西大寺と言えば、全国の鉄オタ注目の近鉄大和西大寺駅の複雑な線路。なんせ奈良線、京都線、橿原線が集結し、各線に乗り入れたり乗り込んだりしているから、色んな形式の電車が色んな方向からやって来て色んな方向へと去って行く。すでに鉄オタから卒業して何十年となる小生ですら、「1日中見ていたい!」って思うほどだから、鉄オタはもちろん、お子さんたちにも大人気の駅。なわけで、駅構内には「お立ち台」もあって、楽しい駅である。大阪向きで写真を撮ったけど、見どころは何と言っても奈良、橿原神宮前方面なので、興味ある方はぜひ、そっち側でダイナミックかつ複雑な線路を眺めていただきたい。

逆光を避け、大阪側を望むお立ち台から。阪神車両の9000系。快速急行のようだが行き先が判読できない。恐らく「神戸三宮」行き
こちらは京都線8000系。このまま橿原線に入って橿原神宮前まで行く

そんな駅名の由来は言うまでもなく、「南都七大寺」の一つ、「西大寺」である。南都七大寺は奈良時代に平城京=南都とその周辺にあって朝廷の保護を受けた7つの大きな寺院。「七大寺」については諸説あるが、一般的には、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺を指す。

御朱印男子
真言律宗総本山 西大寺

近鉄百貨店などの商業施設で賑わっている方とは反対側の西大寺駅南側、徒歩数分で到着。5月も下旬ともなれば、5分ほど歩いただけで汗びっしょりになる。

多くの参拝者はこの東門をくぐって境内に入る。下が中途半端に切れているのは、指が映り込んでしまったのでトリミングしたため(笑)

【御朱印File 23 真言律宗総本山 西大寺】

正式名称は、勝寶山四王院西大寺だが、山号、院名ともに後の世に付けられた。そのためか、寺の公式サイトも「真言律宗総本山西大寺」としている。

宗派の真言律宗は、真言密教の宗義に基づき、「根本仏教」の出家戒である『具足戒』と、金剛乗の戒律である『三昧耶戒』を修学する一派で、「南都六宗」の一つである「律宗」の精神の再興の意義も併せて有している。宗祖は西大寺の中興の祖、叡尊上人である。明治28年(1895)に真言宗から独立し、真言律宗を組織。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(大和十三佛ご朱印巡り第一番)の他、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺など全国90数か寺。

天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の平定を祈願して、孝謙上皇はその当日に『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願した。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇(女帝)となり、金銅製の四天王像を鋳造した。これが西大寺の創建とされる。父君の聖武天皇が平城京の東郊に東大寺を創建したのに対し、その娘に当る称徳天皇の勅願によって宮西の地に本格的に当寺の伽藍が開創される。

称徳天皇誓願の四天王像をまつる「四王堂」。現在の堂舎は江戸時代の延宝2年(1674)に再建されたもの。安置されている四天王像も後世の再造だが、足下の邪鬼が創建当初の姿を伝えている。また、鎌倉時代の正安2年(1289)、亀山上皇院宣で鳥羽上皇御願寺であった京都白河十一面堂院の本尊「十一面観音立像」が客仏本尊として移されてからは、「観音堂」とも称される。

創建当初は、東西11町・南北7町、総計31町歩(約48ヘクタール)という広大な境域に、薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四王院、十一面堂院などの百十数宇もの堂舎が建ち並び、「南都七大寺」にふさわしい大伽藍を誇っていた

しかし、平安遷都後は旧都の寺として朝廷から次第に顧みられなくなり、また度々災害にも遭うなど、急速に衰退し、平安中期以降は一旦、さびれてしまう。

荒廃した西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが、上述の興正菩薩叡尊上人(1201~1290)である。叡尊上人は文暦2年(1235)に入住し、戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進。西大寺がその拠点として繁栄する。

室町時代には兵火により多くの堂塔を失うも、江戸時代になって幕府から寄進された300石の寺領の下で諸堂の再建が進み、ほぼ現状の伽藍となった。

「四王堂」から歩を進めると「護摩堂」。不動堂とも呼ばれる。寛永年間の末年頃(1643)に建立。愛染堂南辺にあったものを昭和54年に現在地に移建。奈良市指定文化財。屋根のカーブが美しい。

そして、こちらが本堂。重要文化財。御朱印はこちらでいただく。元々、鎌倉時代に後述の東塔の北方に建てられた光明真言堂の後身で、寛政10年(1798)頃、造営に着手し文化5年(1808)頃に完成した。堂内は東西南の三方の外陣と内陣を仕切り、内陣北の中央に須弥壇、東西に脇壇を設ける。

本尊は本尊釈迦如来立像(重文)。建長元年(1249)、仏師善慶の作。「清凉寺式釈迦如来像」の典型作で、京都・清凉寺にある三国伝来の釈迦像(三国=インド、中国、日本を指す)の模刻。本堂の中央須弥壇に祀られる。胎内には多くの納入品が納められている。

西脇壇には文殊菩薩騎獅像ならびに四侍者像(重文)。正安4年(1302)の作。獅子に乗る文殊菩薩を中心に、左前に善財童子、右前に獅子の手綱を執る優塡王(うてんのう)、左後に仏陀波利(ぶっだばり)三蔵、右後に最勝老人を従える。東脇壇には巨大な弥勒菩薩像(奈良県指定文化財)。叡尊上人の弥勒信仰を門弟らが継承し、叡尊没後に造像を発願し、叡尊三十三回忌にあたる元亨2年(1322)に完成した。

このほか、地蔵菩薩立像、弘法大師像、興正菩薩像が安置され、須弥壇の後方裏側(裏堂)の壁面には、十六羅漢を描いた絵画が貼付されている。さすが南都七大寺の一つだけあって、寺全体として国宝、文化財の数は多く、歴史の重みを感じる。

本堂の前に、石垣。かつてここに東塔が聳えていた。その基壇と礎石が今も残る。当初、八角七重塔として設計されたが、実際には四角五重塔として創建された。延長6年(928)に落雷による火災で、東西のいずれかが焼失したと伝えられる。その後、平安末期に修造される。叡尊は東塔を中心とする宝塔院という区画を西大寺復興伽藍の中核とした。その東塔も文亀2年(1502)に焼失。再建されないまま塔跡のみが遺る。昭和31年、発掘調査で塔跡周辺に八角に掘込地業が施されていることが判明し、当初の八角塔の伝承が裏付けられた。下手な写真でわかりにくいが、東塔跡を囲む芝生は八角形となっている。

東塔跡越しに見た本堂

東西両塔とあるが、跡が残るのは東塔のみ。広大な伽藍だった創建当時に比べると寺域がかなり縮小しているので、もはや西塔跡を発掘するのは無理だろう。ってことだかどうかは知らないが、境内の片隅に「西塔跡」との小さな石碑が。西大寺開創1250年記念とのこと。つい最近のことなんだなぁ…。

こちらは「愛染堂」(奈良県指定文化財)。その名の通り、愛染さん=愛染明王をお祀りする。江戸時代の明和4年(1767)、京都の近衛家邸宅の御殿の寄進を受けて移築建立された。秘仏の愛染明王坐像(重文)が中央須弥壇に祀られている。今年は1月15日~2月4日、10月25日~11月15日の御開帳。堂内向かって左の間には、興正菩薩寿像(国宝)。西大寺中興の祖・叡尊の肖像彫刻である。ガイドさん(学芸員さん?)が色々と説明してくれて「ほぉ~」と感心することの連続だったが、寺を出るころにはすっかり忘れていて、もう…(笑)。

下の写真は「大師堂」。大正12年弘法大師石仏が奉納され、それを祀るための仮堂が昭和35年に建設され、昭和48年(1973)には弘法大師御生誕1200年を記念して増改築された。西大寺の大師信仰の信徒組織である寺山大師講を中心に、ここで毎年1月21日に初大師供、5月21日には寺山大師講大祭(護摩祈願)が営まれる。

大師堂のそばには「鐘楼」(奈良市指定文化財)。元は摂津国多田院(現・多田神社)の鐘楼で、明治に入って神仏分離となり、西大寺に移築されたもの。清和源氏の発祥の地に建立された多田院は、鎌倉時代に忍性が再興して以降、西大寺の末寺となったが、廃仏毀釈で寺院は廃寺となり、源氏五公をまつる多田神社となった。西大寺と多田神社には、そういうつながりがあったのか。

《御朱印》

【墨書】
・右上:勝宝山
・右下:令和四年五月廿四日
・中央:釋迦如来
・左下:西大寺

【朱印】
・右上:大和十三佛第二番
・中央:宝珠中央に釈迦如来の梵字「バク」
・左下:西大寺角印

毎度のことながら、完璧な予習不足である上に、色々と見逃しているものも多く、帰宅してから「あっちゃー!」と悔やむことしきりの御朱印行脚である(笑)。ここのように近場なら、これからも参拝することがあるだろうけど、遠方だったらブログを振り返る度に情けない思いをすることになる。せめて、お参りする寺社の沿革と主たる宝物のことくらいは、ざっくりと予習をしておきたいものである。でないと、せっかくのご縁も単なるスタンプラリーに成り下がってしまう…。

<ところ>奈良市西大寺芝町1丁目1-5 <あし>近鉄奈良線、京都線、橿原線「大和西大寺駅」南出口から徒歩約3分

(令和4年5月24日 巡拝)


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