人形浄瑠璃文楽
令和3年4月公演<第二部>
前稿でも記したように、公演中の4月15日、吉田簑助師匠より「今公演を以て引退する」旨の発表があり、列島に激震が走った。簑助師匠の人となり、藝については小生ごときが述べるまでもなく、お賢い方々が新聞、テレビ、ネットなどで語られているので、そちらを見ていただけばよいだろう。
小生が言えるのは、簑助師匠の一番輝いていた時代に生きることができたのは、幸せなことだったと、これに尽きるのである。朝日座~文楽劇場と舞台は移っても、そこには簑助師匠がいてはった。まだ二十歳にもなっていなかった小生ですら「ほぉ~」と思わせる圧倒的な藝で空間を支配していたのである。名人上手と言われる人たちが引退する度に「もっともっと大事に、大切に、この人の舞台を観てくればよかった」と後悔することしきりだが、簑助師匠に関しては存分に堪能させてきてもらえたので、その後悔はない。
そこは簑助師匠も引退の辞で、「持てる力のすべてを出し尽くしました」と述べられており、40数年文楽に通ってきた小生とて、「そのすべてをたっぷりと堪能させてもらいました」という思いである。
とは言え、秋公演以降には必ず訪れるであろう「簑助ロス」。番付に「吉田簑助」の名は無くなる。その現実をどう感じるのか…。一つ確実に言えるのは、この数年で文楽の舞台がすごく寂しくなってしまったということ。一刻も早く、この寂しさを解消してもらいたいく、現有メンバーの一層の奮起を期待するものである。
さて、結局は小生にとって、簑助師匠とのお別れになってしまった公演初日の『国性爺合戦』である。
国性爺合戦
満州人国家「清」を打倒し、漢人国家の再興を目指す「反清復明」。鄭成功こと国姓爺は、華南一帯に残存する明の皇族や遺臣を統合して反清復明運動を展開した。東シナ海から南シナ海一帯にかけて活動していた福建出身の海賊集団の首領・鄭芝龍が、鄭成功の父である。日本の平戸に滞在中に日本人女性と結ばれ、1624年、二人の間に鄭成功が生まれる。
近松門左衛門は、鄭成功を「和藤内(和でも唐土でもない、という洒落)」、国姓爺を「国性爺」とし、全五段続きの時代物として、正徳5年(1715)11月、大坂竹本座で上演した。日本と唐土を股にかける壮大なストーリーが人気を呼び、17か月に及ぶ超ロングラン興行となる。現在も、文楽でも歌舞伎でも非常に人気ある演目。
「平戸浜伝いより唐土船の段」
和藤内 希 小むつ 小住 老一官 津國 一官妻 南都 栴檀皇女 咲寿
清志郎 清丈 清公
掛け合いのシンを希ということで「ほう、どうなんやろ」と思ったが、案外、これがピタッとはまっていて、「なかなかやるやん」と感じた。「貝づくし」は耳に心地よく、津國の老一官はさすがの年功を感じさせ、小住の小むつもまっとうで、南都の一官妻も難なく。咲寿は栴檀皇女の話す唐土の言葉を丁寧に聞かせた。しかし…。「とらやあやあ」と異国の言葉しか喋れない栴檀皇女と妻を残し、大明国へ旅立った和藤内と老一官夫婦だが、残された二人はどうなるんでしょうねぇ…。毎回、これが不思議で仕方ない(笑)。
「千里が竹虎狩りの段」
口;亘 清允
奥;三輪 團七 ツレ 團吾 錦吾
亘と清允は御簾内にて。太夫と三味線が御簾内なのに、人形が出遣いということに違和感。なんとかならんかね、こういうの。虎狩りは三輪はんと團七師匠で。軽快に客席を沸かせてくれる(と言っても、このご時世なんで、そこはもう…)。團七師匠は、ツレに愛弟子二人従えて、年齢を感じさせない音色を響かせる。虎の着ぐるみは誰が入っているのか知らないけど、結構な運動神経の持ち主だろう。途中、三輪はんに襲い掛かって扇子でパチンといなされるのは、毎度のご愛嬌。
「楼門の段」
呂勢 清治
簑助師匠が錦祥女を遣う段。よもや、これが小生にとって簑助師匠を拝見する最後になろうとは、この時点ではつゆ知らず。そういう意味でも、その時を大事にしなければならないなと、痛感する次第だ。
さてこの段は、人形の見せ場と言うよりは、浄瑠璃をじっくりと聴くところ。人形にはこれといった大きな動きがないので、まさに「文楽は聴きに行く芸」というものを堪能したい。そこで呂勢と清治師匠なのだから、なおさらだ。錦祥女と老一官、涙の娘と父の対面へ至るあたりは聴きどころであり、そりゃもう、ついさっきまで、怪しい奴らだとっ捕まえろと、今にも火縄銃を撃とうとしていた「心なき兵」たちが涙をこぼすほどである。
ここで、楼門上で絵姿と手鏡を使って錦祥女が、父の姿を確認する。ここ、やっぱり簑助師匠はすごいなあと思うシーン。遣う人形は錦祥女だが、錦祥女のみならず老一官の心の動きまでもその手鏡に映してしまうような、圧倒的な支配力を感じるのである。「千秋楽までに、『楼門』だけでももう1回は観たいなぁ」と思っていたら…。恨むで、COVID-19よ。
「甘輝館の段」
呂 清介
実質、切場なんだろうが、現代の感覚では理解しがたい理不尽な物語となる。ここは聴く方はもちろん、きっと語る方も難しいだろうなと感じる。やはり、呂太夫クラスでないとこなせない段だろう。腰元たちが一官妻を見て、「日本女子」の髪形などを面白おかしく評する場面があり、当初はおかしみの中で物語はスタートするのだが、娘と義理の母の情がからむ終盤は「ああ、なるほど近松やな」な展開となり、挙句は「日本論」みたいな話になってゆく。ここは一官妻の言葉を借りて、近松の「日本とは」、「日本人とは」という思想を語っているのかなとさえ感じる。勘壽はんの遣う一官妻が「日本女子」たるものをキリっと見せていたのが印象深い。
「紅流しより獅子が城の段」
藤 清友
結構振れ幅が多いというのが、小生の持つ藤太夫はんの印象だが、ここはぴったりとはまっていたと感じた。ここは一転して、人形が目に付く段であった。前段から引き続き、錦祥女を遣った一輔は『楼門』で簑助師匠が見せた高貴さを損なわなかった。玉男はんの甘輝は他を圧倒する風格。老一官の玉輝はんは、忠義の人という雰囲気が良く伝わって、物語の本質を見事に体現していた。そして何と言っても主人公の和藤内を遣った玉志はん。実にダイナミックで、国をまたぐスケールの大きな物語の主人公として、存在感抜群だった。和藤内はこの段で国性爺鄭成功と名乗ることになるわけだが、鄭成功のその後の活躍も予感させる玉志はんの和藤内だった。
結局最後、人が死ぬんやな…。そこもまた近松か。
番付の<この後のあらすじ>には、李蹈天成敗の簡単な顛末が記されてはいるが、平戸に残した「とらやあやあ」のお姫さんと、国性爺鄭成功こと和藤内のヨメはんの運命は無い。気になって仕方ないんだが…(笑)。
★★★◇◇◇★★★
さて、緊急事態宣言発動につき、1日繰り上がってしまい、観ること叶わなかった簑助師匠の最後の舞台。出演した『楼門』の後に、ささやかな引退セレモニーが行われた。国立劇場のYouTubeにその模様が上がっていたので、下記に張り付けておきます。後ろで師匠を支える簑二郎はんの号泣が胸を打つ。
<国立文楽劇場4月文楽公演>吉田簑助に引退の花束贈呈!!!
(令和3年4月3日 日本橋国立文楽劇場)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。