【上方芸能な日々 文楽】令和元年11月公演「心中天網島」

人形浄瑠璃文楽
国立文楽劇場開場35周年記念 令和元年11月公演
「心中天網島」

天網恢恢疎にして漏らさず
天網恢恢、疏而不失。 『老子‐七三』
天網恢恢、疏而不漏。 『魏書‐景穆一二王伝・任城王』

古来よりシナ語では『魏書』に云う「天網恢恢、疏而不漏。」で通用してるようで、「老子」の「天網恢恢、疏而不失。」はほとんど目にしたことがない。昨今の香港の争乱でも、デモ隊はよく「天網恢恢 疏而不漏」と下手くそな字でスプレー書きしている。打ち壊し、火付け、リンチを繰り返し、「自分の意に沿わない人間の自由を妨げている」奴らが、よく言えたもんだと呆れながら見ているのだが(笑)。

天網(てんもう)」すなわち天に張り巡らされた網は、「恢恢(かいかい)」すなわち大きくて広い。天が張り巡らせた網の目は「(そ)」でも、悪人は誰一人として漏らさない(逃さない)」という意味。

心中天網島』は、この故事成語をうまくストーリーとタイトルにからませている。さすが近松である。網島は大阪市都島区に現在もある地名で、主人公の小春と治兵衛が最後を遂げた場所。鉄おた的には、かつての関西鉄道のターミナル駅。その生涯は短く、わずか15年だった。この辺の時代(明治中期~大正初期)の日本の鉄道史は実に面白い。

小生の好きな演目のひとつだが、真昼間に心中シーンで幕が下りるってのも、あんまり感心しない狂言建てではあるな。ああいうのは、夜に観てこそと思うのだが、そうなると「忠臣蔵」のフィナーレを以て今年の文楽劇場本公演も、無事に大千秋楽とはならないから、こうするしかないんだろうけど…。

11月9日のお座席…。遠いわな。チケット見たら、11月23日も同じ席やった(笑)

北新地河庄の段

悲しいお知らせ…。毎回楽しみにしている呂勢が休演。劇場のサイトには早々に告知が出ていたから、行く前からなんとも残念な心地。正月も2月の東京もお休みと言うから、重いのか…。春の「千本桜」通しにはぜひとも、元気になって戻って来てほしい。

○豊竹呂勢太夫 病気のため11月文楽公演を休演いたします。なお、代役は以下のとおりです。

「心中天網島」北新地河庄の段 奥       竹本津駒太夫

 織 清介
 津駒 清治

この「河庄」はよかったね。小春が太兵衛を「」と呼んで罵るのが、原作に忠実で割と客席の受けもよく、なんやかんや言うても大阪の客はわかってる人多いなと感じ入る。李蹈天と言えば『国姓爺合戦』のあの嫌なキャラ。こういうので受けるのだから、大阪の本公演は怖いなぁとも思うな。

しかし、太兵衛のあの「口三味線」は…(笑)。毎度ながら、あれはおもろいわ。これを気負うことなく、サラサラとやっちゃうのが、織さん。

どっちかと言えば、軽いタッチで流れて行く前半だからこそ、織さんと清介はんのコンビに合う。とは言え、この物語は他の心中ものと違って、「最初から心中ヤル気満々」な物語だから、どこかに幸薄き女としての小春の風情も漂わせなければならないから、難ものだ。そこは織、清介なら十分心得ているし、人形も治兵衛(勘十郎)、小春(蓑二郎)がこれまた心得ているから、安心の展開となる。

とは言えだ。後半に小春が蓑助師匠に変わった途端に、「いやいや、本当の安心とはこういうことやな」となるのには、今更ながら感心する。

呂勢の代演に津駒はんと来て、「ふ~ん」とか思ったけど、やはりここは年季を感じる奥で、そこは蓑助師匠の登場にも救われたってのがあるかもしれないが、小春の愛想尽かしやそれを聞く治兵衛、孫右衛門の人物造形がしっかりと伝わる浄瑠璃であった。

しかしなぁ…。蓑助師匠も出ずっぱりとはいかなくなってきたのかな…。もう少し、出番を考えてさしあげる必要があるのでは?と思う今日この頃だ。いつまでも観ていたい人だけに、頼みますわな、そこは。

ちなみに、小生が初めて『心中天網島』を見物したのが、大学3回生だった昭和61年の秋公演。いきなり「河庄」を切場として津さんが、小一時間を一人で語っている(三味線は團七師匠)。えらいもんやなと思う。今、一人でやれる太夫おらんのか?とも思う。蓑助師匠がこのときは治兵衛を遣っているというのも、また興味深い。小春は一輔のお父ちゃんの一暢はん。孫右衛門が文吾師匠だった。

これまたついでハナシで申し訳ないんだが、1階の展示室で国立文楽劇場開場35周年記念 特別企画展示「紋下の家-竹本津太夫家に伝わる名品-」ってのをやっていて、一部二部入れ替えの時に観たんだが、「ほぉー」と唸るような逸品、貴重品の数々に見入ってしまう。上述の先代津太夫三十三回忌、先々代津太夫生誕150年を記念してということらしい。紋下という制度が消えて久しいし、今後も復活はしないと思うが、長く紋下的立場にいた住さんが舞台を降り、世を去った後、取って代わる人がいないなぁというのが、今の文楽の痛いところかもしれない。あえて言うなら咲さんか蓑助師匠というところなんだろうが、ニンじゃないとも思うしな…。てか、ニンで決めるんか!(笑)

うっかりして図録(1800円)を買うのを忘れる(笑)。来年、まだ売ってたら買いますww

天満紙屋内の段

 希 清馗
 呂 團七

太夫は弟子~師匠のリレーで。熱量を伝えるようなタイプでない希だからこそ、こういう場がいいのかもな…。でもそれでは寂しいではないか…。という雰囲気でこのところ聴いている。かつて「うめだ文楽」で聴かせた『壺坂観音霊験記』のような熱い語りができるんだからと、思いつつ、あれ以来ないなぁ…。でもまあ、阿呆な丁稚・三五郎なんぞは客席と人形を上手くスゥイングさせていたんじゃないか。

その阿呆丁稚だが、『忠臣蔵』の「天河屋」伊吾を遣った蓑紫郎とここで三五郎を遣った玉勢とどっちがどうだったか、と聞かれると、同じ阿呆でもポジショニングが違うから、比較するには無理があるが、それを承知で言えば、今回は玉勢の方が面白かったかなと。なんか妙にタイミングがいいのだな、これが。

打って変わって、呂さんはさすがで、こういう上方のお店(おたな)の空気感の聴かせ方が非常に上手。團七師匠の三味線も品があって、床で空気感を作って、その中で人形がそれぞれの味を出しているという、理想形が完成された場だった。そんな完成された理想形の中で、一層際立っていたのが清十郎の遣うおさんだった。この段は言うまでもなく、「おさんの段」でもあるのだから、おさんの嘆きぶりをいかに聴かせ、いかに見せるかで公演そのものの評価も決まると、小生は思っている。清十郎はん自身はプレッシャーも感じていたかもしれないが、「なんと気の毒な、そしてよくできた御両人はん(ごりょんはん)なんやろか」というものがよく伝わって来た。

大和屋の段

 咲 燕三

咲さん登場で、グッと空気が引き締まる。出だしの

恋情け、こゝを瀬にせん蜆川、流るゝ水も、行き通ふ、人も音せぬ丑三つの、空十五夜の月冴えて、光は暗き門行灯、……

から安心して身も心も委ねることができる。だからこその人間国宝。

それにしても見事な詞章。さすがの花街北新地も丑三つ時ともなれば、門行灯の灯も落ち、冴えわたるのは十五夜の月明かりだけか…と、素浄瑠璃で聴いたとしても、しっかりその光景が目に浮かぶようになっており、近松の上手さが光る。

今回の『心中天網島』は、総体的に床の出来がよく、「たっぷり」と聴けたなぁという印象。こうなると、人形も生き生きと見えてくるから、やっぱり文楽はしっかりと浄瑠璃聴かせてこそ、なんぼのもんやなと思う。

この段の最後もいい。上述のように大学生3回生の時に初めて見物した時、ググっときたのがここ。

心震ひに手先も震ひ、三分四分五分一寸の、先の地獄の苦しみより、鬼の見ぬ間とやうやうに開けて嬉しき年の朝
小春はうちを抜け出でて
互いに手に手を取り交はし
「北へ行かうか」
「南へか」
西か
東か行く末も早瀬蜆川流るゝ月に逆らひて足を、はかりに

これを聴いて「ひやぁぁぁ~!」と思ったもんだ。ツケがバシバシ鳴る時代物を好んでいた小生が、初めて世話物のよさに目覚めた瞬間でもあった。そこを今、咲さんで聴くという、この幸福感、である。

道行名残の橋づくし

で、小春と治兵衛が命を絶つ場へとつながって行くのだが…。

道行とは言え、ここも近松が見事な言葉で綴る。ただ、『曾根崎心中』と違うのは、「悪所狂ひの身の果ては、かくなりゆくと定まりし」とあるように、戒めの趣が強い。それこそタイトルに見え隠れする「天網恢恢疎にして漏らさず」ということだろう。遊女におぼれ、妻子も商売もそっちのけという治兵衛のような人間の行く末は、こうなるしかないやろ、ということだ。

数年前に見物した時同様に、今回も番付についてきたのが、塩昆布の老舗・神宗(かんそう)の隠居さんでかつての店主だった尾嵜彰廣氏の肝煎による特製リーフレット。さすが、上方芸能のよき理解者にして支援者。そして何よりも、研究者。小生の尊敬する人物である。

この秀逸すぎるリーフレットに尾嵜氏の一文あり。「天網島は、さまざまなものにかかっています」とあって、一つ目に心中の地、網島という「場所」、二つ目に「天網恢恢疎にして漏らさず」という教え、三つ目に「治兵衛が死んでからひっかる網」を挙げている。実は、治兵衛の死骸は、心中から夜が明けた朝、漁夫が網にひかっけて発見され、物語は完結する。さすがに、ここを舞台でやっちゃうと落語の「オチ」みたいになるからねぇ…。こういう風に見ると、ホンマ、この『心中天網島』という題目はよくできているなと、つくづく感心するのである。

小春 三輪
治兵衛 睦
靖 小住 文字栄
清友 團吾 友之助 清公 清允

「忠臣蔵」よりも、ずっとずっと見ごたえ、聴きごたえのあった『心中天網島』だった。「落ちるとこまで落ちるしかないやろ、こういうヤツは」という描かれ方をしている紙屋治兵衛だが、な~んか、わかる気もするねんなぁ。別に小生、「悪所狂い」してはないけどな(笑)。

これで今年の文楽見物は終了。「忠臣蔵」ばっかり観てたような気分(笑)。来年は、正月公演で錣太夫襲名があるが、ファンの関心はすでに春公演の『義経千本桜』の通し狂言に向いているような感じ。そうなのだ、ファンは明らかに「通し狂言ロス」なのだ。劇場はわかっているのか?

(令和元年11月9日、勤労感謝の日 日本橋国立文楽劇場)



 


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