【御朱印男子 14】田邊郷山阪神社

御朱印男子
田邊郷山阪神社

感謝を込めて 平成最後の氏神詣

まあ、氏神と言うにはあまりにも幼いころから身近すぎて、氏神を意識したことがない存在なのが、ここ、山阪神社。児童公園を併設していることもあって、物心ついたころからの遊び場でもある。正月には露店、夏と秋には、例祭に合わせて夜店も出て、多くの参拝者で賑わう。氏地は意外にも広く、隣接の阿倍野区から東住吉区南西部一帯まで、もうどこからどこがそうなのか、考えたこともないが、阿倍野区昭和町在住(?)の漫才師のハイヒール・モモコも、ネタで「日本三大祭のひとつ」に山阪神社夏祭りを挙げているので(笑)、そこらあたりは間違いなく氏地なんだろう。

と、言っても、大阪市南部の土地に明るくない人には、さっぱりなハナシだろうから、このへんで置いておくが…。

そんなあまりにも身近すぎるお宮さんだからこそ、時代の変わり目にはきちんとお参りをしておきたい。そして、これまでは考えたこともなかったが、この機会に御朱印もちゃんといただいておこうと。そこはそれ、「御朱印男子」ですから(笑)。

何よりも、我が両親はここで挙式を執り行い、小生も宮参りに七五三と、節目には山阪神社あり、というわけだ。

【御朱印File 15】山阪神社(やまさかじんじゃ)

大阪市内ながら、緑豊かな静寂の場である。拝殿手前が橋のように見えるかもしれないが、地べたである(笑)。玉垣に「シャープ株式会社」の文字が刻まれているが、ここから数分歩けば、シャープ本社である。いや、元本社か…。とにかくシャープは創業以来、このお宮さんに多大なる寄進をしてきたことが、境内のあちこちに「シャープ」の社名が見えることからわかる。もちろん、今は昔の話だ。平成の30年間でこの町で何が一番大きな出来事だったかと言えば、シャープの一件だろう、間違いなく…。

ご祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)。天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱であらせられる。農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されている。この田辺の地も、昭和初頭まではなにわ伝統野菜のひとつ「田辺大根」に象徴されるように、農業の地であった。

ちなみに小生の出身校、大阪市立田辺小学校の校歌の最初に「かおるふたばに松添えて」とあるが、このふたばは田辺大根のそれを指す。校章だって「ふたばにまつば」だ。田辺大根がいかにして世に名をはせるようになったかは、朝井まかて著の小説『すかたん』でよくわかる。田辺大根は、もうひとつの産物だった綿花ともども、昭和に入って絶滅してしまうのだが、これは南海平野線(現・大阪メトロ谷町線)の開業をきっかけに、田辺が近郊住宅地に変貌する中で、他の土地の土やウイルスが一気に入って来たためだろうと、小生は推察している。

また、野見宿禰(のみのすくね)を配祀し、猿田彦命(さるたひこのかみ)宇賀御魂神(うかのみたま)素盞烏尊(すさのおのみこと)を合祀する。野見宿禰と言えば、相撲の神様として有名だが、その縁か、いつの頃からか大阪場所になると、九重部屋が境内で部屋を置く。境内に鬢付け油の香りが漂い、玉垣に虫干しされた廻しを観ると、春の訪れを感じるものだ。

その九重部屋が置かれるあたり、本殿より少し低いエリアに、小生が幼いころは土俵が実際にあった。いつの間にか姿を消していたが、物心ついたくらいのはるかかはるか昔(笑)に、相撲大会が開かれていたのを何気に覚えている。おじいはんと見に来たと記憶している。

また、夏祭りには、お化け屋敷と見世物小屋が並んで建っていて、お化け屋敷は何度か入ったが、見世物小屋は親から「絶対ダメ!」との厳しいお達しが出ていたので、ついに見ることはなかった。あの頃から比べると、夏祭りの出店も随分と寂しくなったもんだ。ここにも少子化の波が…。

ごく最近になって祀られるようになった、「山阪八日戎」。奥の建物が九重部屋の稽古場になる。このあたりに、お化け屋敷と見世物小屋が並び、小生が撮影のためにカメラを持って立っているあたり、かつては土俵があった。また、幼稚園のころ(昭和40年代前半)までは、盆踊りも行われていて、押すな押すなの踊りの輪ができていたのを覚えている。

さて、結構広い境内には、ご祭神以外にも多くの境内社がある。

本殿と隣り合わせに「荒川稲荷神社」。もちろん、宇賀御魂神を祀る。何故、「荒川」なのかは知らないが(笑)。

春場所ころに行けば、この玉垣に廻しが虫干しされている光景を目にすることがある。しかし、これだけずらっと玉垣が並ぶと、知ってる人の名前、10人やそこらでは収まらん(笑)

そして上述の八日戎社。どうもここは、地元の有名な塩昆布メーカーの肝いりという空気が漂う。そりゃまあ、シャープがああなった現在、一番地元で勢いがあって羽振りのいいのは、あのお店なんだが…。

もちろん、伊勢神宮遥拝所も。神明鳥居のずっと奥の方に神殿も見える。この遥拝所境内は、緑豊かな山阪神社でもひときわ木々が鬱蒼としており、神々しささえ感じる。意地悪な言い方をすると、「もうちょっと手入れせえよ」と、言うところでもある(笑)。

素釜三賽荒神は、文字通り「三宝さん」。家から火を出さないようにと、毎回、お参りはするが、さて、昔からここに三宝さんが祀られていたか、と聞かれると、八日戎同様に「ごく最近のことちゃうかな…」と思うが…。

その三宝さんの前、手水舎の隣に謎の「力石」が並ぶ。一説には、地元の若い衆の力比べとして、重量挙げみたいにこれを持ち上げて競ったとも言われているが、「これ!」という証拠もないようだ。でもそこは、相撲の神さん野見宿禰を祀る当社のこと、大いにあり得る話ではあるだろう。

右端の一番新しい「力石」は、前の九重親方、すなわち千代の富士が寄進したもので、ご本人直筆。あの筋骨隆々とした横綱が、これを持ち上げている画は、想像してもめちゃかっこええではないか! しかし、もうこの世の人ではない…。

力石の前には、参道を挟んでそびえ立つ「田邊町之碑」。これは立派な石碑。明治22年に北田辺村(現在の谷町線田辺駅以北)、南田辺村(同じく法楽寺近辺)、猿山新田(同じく地下鉄西田辺駅西側あたり)、松原新田(同じく南港通り以南の山坂3丁目界隈)の4つの村が合併して「田邊村」となり、大正3年の町制施行で「田邊町」となって、現在の田辺の原型が出来上がってゆく経緯などが記されているが、何分、漢文なんで解読には時間がかかるため、いつも眺めてるだけ(笑)。なんとも情けない国文学科生(笑)。

しかし、思い起こせば、小生の明治生まれ祖父母世代は、ずっとこの昔の地名で呼んでいたと記憶する。松原を小山とも呼んでおり、「小山の○○さんの孫は…」とか言ってたもんだ。

また、JR阪和線南田辺駅(開業時は阪和電鉄南田辺駅)が、校区で言えば田辺に所在しているのに、何故「南田辺」かというのも、この4村合併で理由がわかる。要するに、昔の「南田辺村」の西側にあったから、ということだ。

こちらは、鳥居をくぐってすぐ左手にある通称「楠社」、正式には「楠大明神」。背後には山阪神社の御神木、巨大な楠が深い緑をたたえている。ただ、拝殿前の鳥居には土公大明神の文字が刻まれていることから、同じく鳥居脇にある「御由緒記」による、

明治五年 松原 土公社猿田彦 猿ヶ山 稲荷社を合祀す

とあるように、かつて松原新田にご鎮座されていた土公大明神をお遷しした社と見るべきかもしれない。地主神という説も聞いたことがあるので、恐らくは、元々あった松原新田の開墾にあたって祀られていたのであろう。こちらは、氏神というよりは、「鎮守」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。

こちらの御由緒記も、周りの枝をもう少し手入れするなりして、いつでもだれでも読めるようにしておいてほしいもの。まあ、「そこまで言うなら、自分で手でよけて読みなはれ」というところだろうけど(笑)。

さて、このお宮さん。子供時代には「やまじん」と呼んでおり、いまだにそう呼ぶ人が多い。小生だって普段は「やまじん」と呼ぶ。そんな愛される神社、やまじんこと山阪神社だが、意外にも創祀・創建年代は不詳だ。渡来系の土師氏と同系の田辺氏に関わる社であるのは確かなようだ。住吉大社の神馬の飼育も田辺氏に任されていたらしく、今もJR阪和線の高架脇に「神馬塚(しんめづか)」が残っている。

日本三代実録』貞観4年(862年)8月11日条に、「田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」とあり、田辺西神は当社を、東神は近鉄南大阪線針中野駅東の中井神社を示す。

伊勢神宮遥拝所の前の石灯篭には「田邊西神社」と刻まれている。側面に「天明七年丁未秋九月」とある。1787年のことで、折しも天明の大飢饉の真っただ中である。4月に徳川家斉が11代将軍となり、5月に江戸、大坂を中心に天明の打ち壊しが起き、6月には松平定信が老中となり寛政の改革を行う。そんな年のことである。そのころはまだ「山阪神社」ではなく、「田邊西神社」だったという証である。

山阪神社と呼ばれるようになったのは、明治5年(1872)、村社に列したときのことで、それ以前は山阪明神または田辺神社とも呼ばれていたようだ。まあ、「やまじん」と気安く呼んでいる我々地元民には、しっくり来んなぁ…。

神域は、やや小高くなっていることから、「元・前方後円墳」説が根強い。元禄16年(1703)の検地帳からは、境内地は約30,000㎡にも及び、神社の本殿は前方後円墳の後円部に創建されていると察せられる。確かに、前方部が西側の児童公園に当たる東西方向の前方後円墳と想像もできると言やぁそうだが、古墳に付き物の埋葬品なんぞが出土したというわけでもないので、まさしく「説」の域だ。それでも、「もしかしたら、古代の田辺氏の誰かの古墳かも?」などと思っておくと、なんかロマンがあるやないですか?

こちらが正面鳥居。その前には提灯掛け。何年か前に拝殿が一新した際に、鳥居も付け替えられた。確か、我が家も幾ばくかの御寄進はしていると思うが…。玉垣に名前が無いことから、その額の少なさがよくわかる(笑)。

鳥居の前は難波の宮へと達する「難波大道」。また、鳥居の前を東に行けば、南田辺本通商店街に出る。この南北に延びる商店街は、後日紹介する法楽寺など、多くの寺院が密集するエリアへと続く「下高野街道」である。四天王寺から高野山まで続くという。これまたロマンではないか。

<御朱印>
愛想の悪さは田辺で一番とも言われている(らしい)宮司に御朱印をお願いする。ホンマ、うんともすんとも言いはれへん(笑)。もっぱら対応する助手は、イケメンの神官。息子か?

<朱印>
右肩 参拝記念 山阪神社
中央 山阪神社
<墨書>
右肩 摂津田邊郷
中央 山阪神社
左下 平成三十一年己亥歳卯月三十日

イケメン神官さん、参拝記念朱印がよう見えへんねんけど、ま、そこはスタンプ帳じゃあるまいし、平成最後の日に、地元の一番親しみのあるお宮さんで御朱印を頂けることに、日ごろの神恩を感謝すべきであろう。御朱印頂くということは、神恩感謝、仏縁感謝の気持ちと心得ていたいと思う。

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いささか長くなってしまったが、超地元ネタ故、そこは笑って許して。でも、こうして、それこそ玉ねぎの薄皮を一枚一枚はがしてゆくように、地元の話を調べてゆくのは実に楽しい。この楽しみを教えてくれたのは、小生が小学校4年生の時、全校児童に配布された創立100周年記念誌『田辺百年のあゆみ』だ。200ページを超える、箱入の立派な歴史書で、学校の100年の歴史だけでなく、古代から現代に至る、田辺の、そして大阪の歴史が延々と綴られた、素晴らしい本である。もちろん、今も我が家に弟のものと2冊あるのだが、姿は見えていても、引っ張り出すとすべての堆積物が崩壊するのは間違いないので、遠くから見つめているだけである(笑)。

でも、こういうことは、きちんと何らかの形で、文章で残しておきたいね。時間と資金をいただければ、俺、やりきってみせますよ! フィールドワーク大好きだから。ってわけで、時間と資金を下さい!(笑)。

<ところ>大阪市東住吉区山坂2-19-23 <あし>JR阪和線南田辺から徒歩約8分

(平成31年譲位の日 摂津田邊郷山阪神社)



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