【上方芸能な日々 文楽】第418回公演記録鑑賞会

人形浄瑠璃文楽
公演記録鑑賞会 『太平記忠臣講釈

上皇陛下が皇位を譲位され、天皇陛下が皇位に即位され、元号も改まり。そんなこんなの10連休に世の中は浮かれ気分だったが、小生は余人に代えがたい特殊な技能を要する委託業務がいよいよ佳境ということで、10連休のうちお休みは3回しかなかった。まあ、休んだところで、何をするわけでもなく、稼働しておればそれでお金ももらえるんだから、文句はない。

さて、連休明けの5月7日、平日のお休み。世間はこの日から稼働だが、こちらは一息つかせていただく。そんな日に、幸運にも文楽劇場で「公演記録鑑賞会」が。今年度は文楽劇場開場35周年記念で、人形のほうで『仮名手本忠臣蔵』を3公演に切り売りして「通し狂言」などと謳う羊頭狗肉なことをやっている関係で、この記録会も、文楽、歌舞伎、浪曲、講談の忠臣蔵及びスピンアウト作品がずらりと並ぶ。

この日は、平成5年11月に文楽劇場で公演された『太平記忠臣講釈』の映像を鑑賞する会となった。26年前、これをどんなメンバーでやったかというと…。

「七条河原の段」
咲、清介

「喜内住家の段」
中:小松、喜左衛門
切:住、燕三

<主要な人形配役>
惣嫁お百 勘壽
惣嫁お君 亀次
万歳徳若 文司
女房おりゑ 文雀
おりゑの客 蓑太郎(現・勘十郎)
矢間重太郎 蓑助
遊女浮橋実は重太郎妹おむつ 一暢
喜内女房 文昇(二代)
矢間喜内 作十郎
他にも、若かりし日の玉佳、簑一郎、紋秀、玉志らの姿も。

他人さんに「若かりし日の」なんて言いつつも、小生だってまだ30歳だったんだわ、この年は(笑)。この人たちは今や、文楽を支える人たちになっているが、小生なんぞは、いまだに自分すら支えられない(笑)。そういう意味でも、芸人さんを尊敬するのだ。

例によって、150席ちょいの小ホールだから、早くから並んで争奪戦となる。小生は42番。子供のころなら「死人番号42!」と言われる番号だが、大人になってそんなこと考えているのは、小生くらいだろう。あと数か月で56歳になろうかというのに、何を考えてるんやら(笑)。

太平記忠臣講釈

■初演:明和3年(1766)10月 大坂竹本座
■作者:近松半二、三好松洛 他
・明和4年には、江戸で歌舞伎化。
・『仮名手本忠臣蔵』全体を書換えた作品。

七条河原の段

上述の通り、咲・清介の「ゴールデンコンビ」である。まだ、当時は咲さんは切語りではなかったなぁ。たしか朝日放送の『ナイトINナイト』火曜か水曜の「おっちゃんvsギャル」のメンバーで出演してはったと記憶する。まあ、昔から人気者ですわな。

さて、作品スペックでも記したが、これは『仮名手本忠臣蔵』を近松半二、三好松洛らが書き換えたもので、その筋立ても似て非なるものとなっている。まあ、今でも誰それの書いた忠臣蔵とか、誰それが主役の忠臣蔵とか、その度に書き換えられているわけだから、そんなもんだろう。しかし、今日に至るまで上演回数がかなり少ないことを見ると、やはり「本家」にかなうものは無し、ということだろう。

この段は、六段目にあたる。矢間重太郎は、塩谷判官の家臣の一人で、殿中の事件後に行方を暗ませている。その重太郞の妻おりゑは、病身の舅・赤穂浪人矢間喜内と疱瘡の子供を養うべく、七条河原で惣嫁(時代劇などで言う「夜鷹」。大坂では惣嫁と言う)として働くも、身を汚しはしない。そこへ浮橋(実は重太郎の妹おむつ)が祇園から逃げてくる。おりゑは、男が河原に何かを埋めたのを目撃。金ではないかと探るが、男が戻ってきて争いになる。雪明かりで男の顔を見れば、なんと!夫の重太郞ではないか…。おりゑはその身を恥じ、走り去る…。

という段。これは「本家」にはない物語である。それだけに床本が欲しいところ。タダで過去映像を見せてもらってるので、要求はできないかもしれないが、やはりこういうのは、「あらすじ」だけでは物足らないし、作品の理解を深められない。そういうことなんで、床本、ください!

咲さんが、まだ粗削りさも感じるが、大胆に聴かせれば、清治師匠はエッジの立った鋭い音でガンガン攻めてくる。なるほど、あの頃の人気のコンビだと納得のお二人さん。

喜内住家の段(きないすみかの段)

小松太夫、喜左衛門師匠が懐かしい。昨今、勝平が着々と喜左衛門の名跡に向けて腕を上げていっているのが頼もしい。それを思うと、小松はん共々、逝くのが早すぎた…。

切は住さんと燕三師匠。燕三師匠は、燕三師匠のまんま(笑)だが、住さんがまだまだ若々しい。このころが円熟の域、頂上に上り詰めたあたりじゃなかろうか。決して美声ではないが、それゆえに胸にずんと響くものを感じる。咲さんと清治師匠が当時の「ゴールデンコンビ」なら、このお二方は、「頂上コンビ」だろう。

この段は、本作の七段目となる。色々と目まぐるしく物語が展開するので、目が離せない。寝てる場合じゃない(笑)。

舞台は重太郞の父、喜内の家。折しも、疱瘡にかかっていた重太郞の息子、太市郎の容体は峠を越えつつあった。そこへ、おりゑがおむつを伴って帰ってくる。さらに、新たな主人に仕官した重太郞も、鎌倉に下ると言って帰ってくる。しかし喜内は二人の主に仕えるとは何事かと怒る。重太郞は、親子の縁を切り、おりゑとも離縁し、鎌倉に向かおうとするも、おりゑは男の子は父親に託すものと、太市郎を重太郞に渡す。困惑する重太郞は、遂には息子の太市郎を刺し殺す! これを見ていた喜内は、重太郞が主君の仇を討つ覚悟であることを知り、内緒で貯めていた金を与える。一方のおりゑは、賤しい仕事をしていたことを恥じ、我が子も失った悲しみに自害。重太郞は、主君の仇、妻子の仇を討つために、鎌倉へ出立する…。

出た出た。わが子を殺害して…って文楽の「あるある」な場面が。いやまあしかし、文楽・歌舞伎ではどれだけ多くの子供が殺されることか。昨今のDVとはまったく意味合いが違うし、何より時代が違うから、これを非難することはできない。むしろ、客はこのシーンに涙し、拍手を送りたくて劇場に足を運んでいるのだから。

忠臣蔵の書き換え作品と言っても、本家では子供は登場しないし、女性が自ら命を絶つシーンもない。サイドストリーというものではく、正真正銘の「書き換え」、もっと言えば「別物」と見るべきだろう。

独立行政法人日本芸術文化振興会の「文化デジタルライブラリー」なる便利なサイトがあるが、そこで見てみると、朝日座時代から、この演目自体が数えるほどしか上演されていない。それも今回観た「七条河原の段」と「喜内住家の段」のみだ。ということは、他の段は上演資料が残っていないのか、あるいは、全然おもろくないのか? まあ、今回これをきっかけに少し調べてみたが、どうもあまりおもろい話ではないような…。

そういう意味では、もしかしたら今後もほとんど舞台にかかることがないかもしれない。ってことは、今回、たまたまの休日に、たまたまの「鑑賞会」があって、懐かしいメンバーでのこの演目を観ることができたのは、非常にラッキーなことだったんではないか? 幸薄い小生は、こうやってまた今年の運のほとんどを使い果たしてしまうのであった(笑)。

ちなみに、件のサイトに記載されている一番古い上演記録が、昭和47年の朝日座正月公演。「七条河原」が咲、叶太郎で、「喜内住家」が小松、吉兵衛、アトを文字、燕三。なんと、咲さん、小松はん、文字さん(後に住さん)、燕三師匠と4人が上映された映像と同じメンバー。そしてこの中で、小生が舞台を観たことがないお方が、吉兵衛師匠だけという(笑)。小生もえらいまあ古手になってしまった…。そりゃ、改元も2回あるわな(笑)。

そんなこんなで、今回の鑑賞会もまた、色んなことを思い出させてくれた。また同時に、色んなことを考えさせてくれたし、調べ物もした。わずか2時間ほどで、抽斗が一つ二つ増えるのだから、結構な話だ、それもタダで(笑)。でも、床本もちょーだい!(笑)。一部100円で買うし!←100円かいっ!(笑)

(令和元年5月7日 日本橋国立文楽劇場小ホール)


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