第14回大阪アジアン映画祭
特集企画《Special Focus on Hong Kong 2019》
女は女である
港題=女人就是女人<海外プレミア上映>
大阪アジアン映画祭もいよいよ終盤戦。この日は、野暮用で「余人に替え難い特殊な技能を要する委託業務」はお休み。野暮用は午前中で終わる。例年なら、こういう時「お、これ観ておこうかな」という作品もあるのだが、どうも今年は最初に絞った以外に、食指が動く作品が見当たらなく、結局、予定していた一本を観ただけ。まあ、そういう年もあるわな。もしかしたら、食指が動かない作品でも、観てみたらよかったってこともあったんだとは思うけど、最近は、そういう「冒険」をしなくなったなぁ…。俺も年を取ったということですわな(笑)。
「睇戲」と書いて「たいへい」。広東語で、映画を見ること。
港題 『女人就是女人』
英題 『A Woman Is a Woman 』
邦題 『女は女である』
公開年 2018年
製作地 香港
言語 広東語
評価 ★★★☆(★5つで満点 ☆は0.5点)
導演(監督):孫明希(メイジー・グーシー・シュン)
領銜主演(主演):李蕙敏(アマンダ・リー)、黄家恒(トモ・ケリー)
主演(出演):麥詠楠(ブベー・マク)、麥芷誼(コイ・マク)、鄧汝超(サニー・タン) 他
なんか聞いたことあるタイトル。ゴダールか…。観たことないけど(笑)。
1990年代、香港在住初期の頃、ゲイカップルやレズカップルが、堂々と手をつないで街を歩くのを見て、「いや~、香港は進んでるねー」と感心していたものだが、セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)への不理解というのは、厳然として香港社会にはあるようで、上映後の舞台挨拶でも、自身も性転換している主演の黄家恒(トモ・ケリー)が、その辺のことを語っていた。
彼女によれば、今や「LGBTについての情報量は、香港よりも日本の方が多いと思う」。あの90年代の頃は、まったくその逆のことを小生は、同性愛カップルたちを見て思っていたのだが、いつの間にか逆転していたということか? このあたりは、意外と保守的な香港人気質も影響しているのかな…。『先に愛した人』で触れた台湾の現状からも、香港は“後進国”なのかもしれない。
かく申す小生も、ホントに「な~んとなく、こんな感じ?」くらいの知識しかない。そもそも、同性愛と、今回のこの作品が描いたトランスジェンダーというのは、同じくくりでは語られないということすら、ほとんど理解できていなかったし、いまだにピンときていない。「あんた、アホですか?」と言われても仕方ないくらいに。恐らく世間の大半も同じような感じではと思う。もしかしたら、あえて「わかろうとしない」のかもしれないなぁ。小生もそんなところ無きにしも非ずだ、正直に言えば。
そんな社会に一石を投じようとしているのが、この『女は女である』という作品。男の子だけど、女の子になりたい男子高校生と、性転換後に娘を持つ男と結婚し、生い立ちを隠して生きてきた女性、この二人の懊悩を描いている。
<作品解説>
女性になりたい気持ちをひた隠しにして高校生活を送っているリンフォン(トモ・ケリー)。学校が企画した「普段着での登校日」に女子用制服を身に着けて心打ち震える感覚に真の自分を確信し、自分らしく生きることを決意する。リンフォンのガールフレンドであるライケイ(ブベー・マク)の母ジーユー(アマンダ・リー)は20年前に性別適合手術を受けて女性になっていた。それを知った夫ジーホンは、事実を受け入れられずライケイと共に家を出る。
引用:第14回大阪アジアン映画祭HP
李蕙敏(アマンダ・リー)が、さすがの存在感。アマンダ自身、LGBTを支持しており、「脚本を見て出演を決めてくれた」と、孫明希(メイジー・グーシー・シュン)は言う。こういう大物が出演してくれることで、映画の注目度も上がる。作戦としてはいいところに目を付けたが、そうしない限り、作品に目を向けてもらえないという、厳しい現実もある。そんな背景を抜きにしても、アマンダがいることで、画面もストーリー展開も、随分とひきしまったものになっているのも確かである。そこはもう、天下のアマンダ・リーの実力を見せつけられたというところだ。
今映画祭に来阪し、この日も舞台あいさつに立って見事な日本語で受け答えしている、もう一人の主演、黄家恒(トモ・ケリー)は、まあ、演技と言う点では、「う~ん…」という場面もあることはあったが、根が真面目なんだろう、しっかりと映画を作り上げているという気持ちが全体から伝わってきた。何よりも、「LGBTのこと、トランスジェンダーのことをもっと知ってほしい」という思いを感じさせるのが、素直で好印象。
その黄家恒(トモ・ケリー)演じる男子高校生リンフォンの女朋友、麥詠楠(ブベー・マク)。「名前も顔もよく見るな~」と思っていたら、出演作品が大阪アジアン映画祭で上映されるのが、これが3本目と、すっかり「常連さん」。『哪一天我們會飛(私たちが飛べる日)』、『中英街1號(中英街一号)』に出演しているではないか。快活な女子高生だが、アマンダ演じる母が、実は元々は女ではなかったという事実を突きつけられた上、男朋友もまた「女の子が好きになれない」「女性になりたい」という願望を持つ…。なかなか、きつい立場である。そんな複雑な胸中を、うまく表情や口調に出せる好演ぶり。
香港の学校には社会福祉士が常駐していて、生徒の様々な相談を受けてくれるというのを、この作品で知る。物語上のことだけかもしれないが、ああいう人がいて、家族やクラスメートにきちんと、リンフォンの悩みや願望を説明し、理解を求めるというのは、いい仕組みだなと思った。悩みを受け止めてくれる人がいないと、壊れてしまうかもしれない年代だけに、こういう存在は、非常に重要だと感じた。日本はどうなんだろう? 無償化などの負担低減措置も大事だが、それ以上に必要なのは、子供たちの悩みを掬い取ってくれる存在が、各校に必ずいる、ということではないかと思うのだが…。
今作が長編デビュー作となった孫明希(メイジー・グーシー・シュン)監督。これまで何度かプロデューサーの黃欣琴(ミミ・ウォン)とトランスジェンダーに関するドキュメタリーを撮ってきたが、トランスジェンダーの人は観てくれても、一般の人にはなかなか観てもらえなかった。「じゃあ、映画として一本撮ろうか」ということが制作のきっかけだと言う。「ドキュメンタリーでは難しかった感情の表現を、映画では表現していきたかった」ということだが、そこは非常に良く表せていたと思う。当たり前だが、アマンダのそれはピカイチだったし、黄家恒(トモ・ケリー)も麥詠楠(ブベー・マク)も光っていた。うまく力を引き出せてあげれていたように思う。
で、映画の方だが…。はっきり言うと、わかりにくい構成ではあった。時々、亡霊のように現れる麥芷誼(コイ・マク)演じる幻影は、恐らくは、リンフォンの心理の奥にいる「願望」なんだろうけど、小生にはその存在意義があまり必要性を感じなかった。もうちょい料理のしようもあったのでは? と思った。全体的にもやや小難しさを感じた。監督は長編は初めてということなので、今後に期待しておきたい。
終演後のサイン会でトモ・ケリーに「それにしても自分、日本語上手やな~」と話しかけたが、「そうですか! ありがとうございます! 日本の方たちがいっぱいお友達になってくれて、日本語ができるようになりました!」とのこと。15年ほど住んでいて、幼稚園レベル未満の広東語力しかないない小生は、実に恥ずかしい思いである(笑)。
女人就是女人預告片
(平成31年3月15日 シネ・リーブル梅田)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。