人形浄瑠璃文楽
平成31年初春文楽公演 第一部<2>
めでたさは、まづ、まゆ玉のしだれより 万太郎
ということで、あちこちで繭玉の揺れる文楽劇場は、正月の装い。ただ、正月も5日ともなれば、なんかもう普通の土曜日といった感じがして、せわしないことこの上ない。もっとも、今年は暦の関係で、たまたま5日も休みだっただけのことで、普通ならとっくに仕事が始まっているわけだから、急速に正月気分が抜けても致し方ないところか。あ~あ、あさってから仕事かよ~、と思いつつ、文楽劇場に向かうはずだったのだが…。
二人禿
ごめん! 寝坊して見逃してしもた! 出直します!(かどうか、予定は未定w)
伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
■作者:松貫四、吉田角丸、高橋武兵衛合作
■初演:天明5年(1785)江戸結城座で歌舞伎にて初演
■題材:寛文年間(1670年頃)、仙台・伊達藩で起きた「伊達騒動」
・仙台…先代、伽羅…伊達綱宗が履いていた伽羅(きゃら)の下駄、伊達家の「竹に雀」の紋など、それとなく伊達騒動の話とわかるようになっている
・歌舞伎「伽羅先代萩」「伊達競阿国戯場」の影響を受けて作られた。歌舞伎、文楽双方が影響を与えあっている
前回観たのは、6年前の4月公演。この6年で、随分と様相が変わったなぁと、実感した。それは舞台で演じる側だけではなく、客席の方も含めて。
「竹の間の段」
織、團七
前回と言うより、小生の認識の中では、ここは「掛け合い」なんだが、今回は、織太夫が一人でこなす。それはそれでいいのだが、小生のようなひねくれた見物人は「太夫の人数足らんからやな」なんて勝手な想像をめぐらしてしまうから、始末が悪い。ま、それはそれとして。
なんかこう、ワサワサとした感じがした。これは、決して織さんのせいではない。小生自身の問題なのである。と、言うのは。「二人禿」を寝坊して見逃した上に、この段も始まって10分後くらいに席に着いたという情けなさである。さらに、前の人の頭が邪魔になって、舞台がほとんど見えないという悲劇的なお席。もはやお手上げである。こうなると、すべてに集中できなくなってしまう。で、結局、ああああーーーって言うてるうちに、昼飯である。こういうことに左右されるから、ライブはおもろいし怖い。さらに言えば、こういうことで舞台に対する集中力を喪失してるから、結局小生はいつまでたっても「三流見物人」のまんまなのである。
「御殿の段」
千歳、富助
この段の前に昼飯タイムがあったもんだから、鶴喜代君や千松の空腹が意味するところが、ほとんど伝わらないという、なんともはやな空気感。やっぱ、もうちょっと考えた方がいいですよ、劇場さんも。こういう配分は非常によろしくないよ、ホンマ。よって、この段の良さが伝わらない。そこを伝えきれない千歳はんにも、責任が無いとは言えないが、そこまで言い切ると、気の毒である。もっとも、さっきの段の織太夫のワサワサ感が、後を引きずっているってのもあるのかもしれないけど。それにしてもなぁ…。
「飯(まま)炊き」は、これまでグッと胸に迫るものを感じた段で、とても好きな場面のはずだったが、今回は全くダメ。感じいるものが全然なかった。子供が腹空かして「腹減った~、メシ食わせ~」ってダダこねてるようにしか感じなかったのは、実に残念。ま、もう1回くらいは行こうと思ってるので、そこでまた、違う聴こえ方することに期待しておく。―行かなかったりしてww。
「政岡忠義の段」
織、燕三
咲さん休演に付き、織が代演。ここは咲さんで、これまでのワサワサ感をグッと引き締めてもらいたかったところだが、いない人に無理を言っても仕方ない。織に期待というところだ。
結局のところ、今回は変な(あえてそう言う)ところに昼飯タイム挟んだがために、タッタターといかない「難モノ」になってしまった感が強い。もちろん、それが全てはないし、そもそもが寝坊した小生に集中力がなかったのも大きく原因しているとは思う。ただ、この話はもっともっと客席を引き付けるものだったはずだけど、一番拍手が起きたのが蓑助師匠の出の場面というのが、もうねぇ…。いやいや、蓑助師匠だから拍手が起きて当然なんだけど、「そこだけかい!」ってのは、あるわな。前回観たときは、「竹の間」から「床下」まで休憩なしの、それこそ“一気通貫”で見せてくれたから、すごく見ごたえ、聴きごたえがあったんだけど、今回のようなやり方はアカンねえ。
で、織さんだが、なかなかここは師匠の代役を見事にやってのけたんじゃないかと。何がどうだと、小生のような三流見物人に追及されても困るんだが(笑)、おもしろかったのだ、この段の全体が。
かつて住さんは「口さばき」ということを言っていた。その口さばきが、織は上手いんじゃないかと。とは言え、時折、八汐が田舎の婆の口さばきに聴こえてしまったのは、改善の余地ありかな。「でかしゃった」で、昔はワーっと客席がうなったもんだが、こと今日の客に関しては、まったく無反応だったな…。偉そうに言えた立場じゃないが、見物側の劣化は急速に進んでいるな。文楽に限ったことではないけど。
人形は相変わらず、全般的によろしいね。印象深いのは八汐の勘壽はん。この人にぴったりのかしらではなかったろうか。憎らしい役どころを憎らしく遣っていた。一方で、蓑助師匠はちょっとお疲れ気味なのかな、と最近思うことが多くなった。蓑助師匠の味わいは、栄御前では出てこない。そして、鶴喜代君はやっぱり蓑太郎であったと…。
この日の小生の腹具合的には、ここで昼飯タイムでもいいくらいなんだが(笑)。中途半端な休憩時間の後には、『壺坂観音霊験記』が始まる。
壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)
昨年末の「公演記録鑑賞会」で、平成の御代となって数日後の、至極とも言うべき壺坂を観ただけに、どうしても辛口になってしまうが、事実だから仕方ない。
■初演:明治17年(1879)2月 大阪千日前での「生人形(いきにんぎょう)」の見世物『西国三十三所観音霊験記」 人形浄瑠璃では、同年10月、大阪大江橋席での『西国三拾三所観音霊験記』
■作者:明治20年(1882)2月、彦六座での上演にあたって、二世豊澤団平が改めて作曲し、妻の千賀女が加筆
「土佐町松原の段」
亘、燕二郎
エエ声によく聴かせる三味線。これを御簾内でやらせてはもったいない。わかってる人は、引っ込むときに、ちゃんと御簾に向かって拍手してはったけどね。例の「鑑賞会」の映像では、三輪はんと弥三郎はんが、床でやってたけどな。そのくせ、人形さんは出遣いなんや。逆に「鑑賞会」の映像では頭巾で遣ってたけど。この違いは何を意味するんやろか? 教えて、劇場はん!
「沢市内より山の段」
何度も引き合いに出すが、この前「公演記録鑑賞会」で観たこの段は、切場として越路師匠が一人で語りぬいた。残念ながら、今、それができる太夫がいない。体力的にはOKでも、客が辛抱できるか、というハナシだわな、きっと。人形も、鑑賞会の映像では、蓑助師匠が縦横無尽にお里を遣い、先代の玉男師匠が、ぐっと抑えた沢市で、その鬱屈した気持ちを見事に表現していたのが印象深い。人数は充実しているが、果たしてそこまでのことを見せられる人形遣いがいるかとなれば、決してYESと言えない。そんな時代の名場面は、それぞれを愛弟子が遣う。お里を蓑二郎(公演前半)、沢市を玉也。
前:靖、錦糸
若手実力者No.1の呼び声高い靖に期待。それだけに「もっとできるやろ、出し惜しみしてるのか?」と言いたい歯がゆさも、時に感じつつ、上述した「沢市の鬱屈した気持ち」をなんとか、錦糸はんに引っ張ってもらいながら、語ることができたんじゃないかなと思えた。ま、この辺は、結構、贔屓の引き倒しも交ざってるけどね(笑)。
ここもまた、あの有名すぎるクドキで、拍手も何もない。それこそ昔は「待ってました!」「タップリ!」と声もかかれば、手も鳴った場面だけどねぇ…。
奥:呂勢、清治 ツレ 清公
本来なら、呂勢一人でこの段全てを語り通してほしいところだが、そこは靖も育てつつということと、理解しておく。次回、観る機会があったなら、是非とも呂勢で通してほしい。もちろん、靖一人でってのも大歓迎だ。
ここは「呂勢を聴く、清治師匠の三味線に心打たれる」という場でなく、どうしても、人形に目が行ってしまう。とは言え、壺阪山へ二人してお参りに行こうとなった道中の、沢市の打って変わったルンルンぶりに、「おや、これはちょっと何かあるで、もしや…」と思わせる流れを聴かせる。で、その「もしや」が起きる。
以前、文吾師匠に長時間お話を聞く機会に恵まれたとき、「人形を崖の上からほり投げるのん見て、『わー、文楽てすごいことすんねんなあ』と衝撃を受けた。人形遣いになろうと思った大きなきっかけになったシーンやね」と話されていたのを思い出す。崖から身投げもすりゃ、火の見櫓にもよじ登り、挙句は甲子園で始球式もやっちゃう(笑)。ホンマ、文楽の人形さんは凄いわな。
谷底に落ちて、てっきり死んだと思ってたら、観音さんのお導きによって奇跡的に眼が開いた沢市さん、後を追って身を投げて、やっぱり一命を取り留めた恋女房の顔を初めて見て、「お前は、マア、どなたぢやえ」とは微笑ましい。正月公演らしく、ハッピーエンドで幕となる。
この浄瑠璃のヒットが先か後かは置いといて。とにかく今もなお、壺阪寺は「眼病に霊験あり」ということで、全国から参拝者が絶えないという次第。
さて、第二部は、日を変えてということに。やっぱ、腰が丸一日、劇場に座ってることを拒絶するようになってしまった。いやはやまったく。年は取りたくないもんだ…。
(平成31年1月5日 日本橋国立文楽劇場)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
こんにちは。このごろ大阪にも文楽を観に行くようになり、こちらのブログをよく拝読しています。先代萩は、「和生さん!」と声がかかったのが印象的でした。本名ぽいとおもっていましたが、きっとそうなんでしょうね。じぶんのときは靖太夫はもう休演でした。阿古屋は三曲、とくに胡弓がすばらしかったとおもいましたが、どのようにご覧になりましたでしょうか。
コメント、ありがとうございます。
昨日(1月19日)、再度、文楽劇場へ行きましたが、靖太夫が休演していましたね。もっとも、壺坂は観ませんでしたが。
阿古屋の胡弓は素晴らしかったですね。あれを弾きまくる寛太郎もよければ、主遣いの勘十郎も、左の一輔もほんと素晴らしい芸を見せてくれたと思います。そのうちブログにしますので、また感想をお寄せください!