【御朱印男子 12】天童山大黒寺

御朱印男子
天童山大黒寺


正月の 子供になって 見たき哉
 一茶

亥年の新春、お健やかなこととお慶び申し上げます。

今年の最初は、御朱印男子にて。いきなり小林一茶の正月の句から始めてみたが、子供というわけでなく、さりとて大人というわけでもない、微妙な年代を過ごした村の、非常に由緒ある寺をお参りしたので、「ああ、あのころは無邪気で楽しかったことよ…」って思いから、この一句を思いついた次第。いや、別に俳句趣味があるわけではないけど、ふと、この一句を思い出したので。

自宅最寄駅から、近鉄南大阪線を乗り継いで40分弱。羽曳野市は駒ヶ谷駅にて下車。近畿を代表するぶどうの一大産地として有名で、秋にはぶどう狩り客が押し寄せるが、普段は田舎の寂しげな駅である。とは言え、駅前には世界で流通する、あの人気の品を製造販売する有名企業の本社がある。

下戸の小生が、香港在住中に唯一常備していた酒類が、「チョーヤの梅酒」だ。香港中のコンビニ、スパーで売ってない店はないんじゃなかろうか、というくらいの人気商品である。

実は、この駅、小生が高校3年間通学に利用していた駅である。母校へは、ここから徒歩20分弱。今から考えれば、よく3年間、通ったもんだなと。そんなわけで、冒頭の句につながるという、かなり強引な塩梅である(笑)。

その通学路途上、駒ヶ谷駅からは5分ほどのところに、本日の参拝先がある。

【御朱印File 13】天童山大黒寺(てんどうざん だいこくじ)

通学していた3年間と教育実習2週間、毎日この前を往復していたのに、ついに一度も山門をくぐることがなかったという、罰当たり野郎である。この度、卒業から実に37年目にして、ようやく山門をくぐる運びとなった次第だ。ま、こういうのは、世の中の、何か目には見えない波長が、ピタッと合ったか否かという事だと思うんで、これまではピタッと合わなかったということだろう。

縁起によれば、天智天皇4年(665年)正月、甲子(きのえね)の日に、役行者が金剛山で修験していたところ、大黒天が五色の雲に乗って現れて、「我は、福を与える神だ。縁ある地に我を祀って、祈願する道場とせよ」と、告げられたという。で、役行者が探し当てたのが、この地であったと。役行者は小堂を建て、自らの姿を水に映し、桜の木で彫った大黒天尊像を安置したとされる。

というわけで、ここは日本で最初に大黒天が出現した霊場として名高い。

開山した当時は、修験道場であったが、密教伝来以後、空海によって真言宗寺院となる。天正年間には、織田信長の大坂進出の際の戦火により、堂宇は消失するも、当時この地の豪族・庄屋であった大黒豊継(おぐろ・とよつぐ)の尽力の甲斐あり、中興再建された。

このあたりの地名は、「大黒」と書いて「おぐろ」と読むが、地名は大黒寺に由来というよりも、この大黒豊継に由来しているようだ。余談ながら、地名が「おぐろ」なんで、寺の名前も「おぐろでら」と呼ばれることが多いが、正しくは「だいこくじ」である。多分、母校の生徒はこの故事来歴を知らない。小生も、今日、初めて知った(笑)。

享保19年(1734年)、大乗寺二十九世密山道顕禅師によって改宗され、曹洞宗の寺院となり現在に至る。

さて、本尊の大黒天と、大国主命(おおくにぬしのみこと)、いわゆる七福神の大国さんとは同じなのか、違うのかという疑問が沸き起こる。実際、浪速区には「大国町」という町があり、そこには「大国神社」もある。ややこしや~、ってところだが、ざっくり言ってしまうと、同じということになる。

そもそも大黒天は、マハーカーラ、摩訶迦羅(まかから)とも呼ばれ、日本には密教の伝来とともに伝わる。天部(仏教の守護神)の一神で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、中国において、財福を強調して祀られたものが日本に伝えられる。

鎌倉時代までは、一面二臂、または三面六臂で青黒(しょうこく)か黒色で、怒りの相で表現され、左の肩に袋を掛け持つという姿。室町時代には、神道の大国主命信仰と習合し、一転して微笑みの表情となった。江戸時代には、現在のような米俵に乗った福々しい表情が完成され、福徳財宝を司る神として信仰を集めるようになった。

この「千年小槌」の周りを、鈴を鳴らしながら7周して願いごとを念ずると、叶うと言われているのは、大国さんの打ち出の小槌に由来するんだろう。もちろん、「がっぽり儲かりますように!」とお願いしてきたので、今年の金運は安泰(のはずw)だ。「なにごともすずなりかなうねがいごと」といきますように…。

こちら本堂(大黒天堂)。役行者が約1350年前、甲子の日に作り祀ったと伝えられる御厨子におさめられた本尊である日本最古の大黒天尊像をはじめ、約千年前に作られたという役行者像弘法大師尊像十二神将像などが安置されている。本尊の大黒天は、60日ごとの甲子の日(きのえねのひ)・節分・正月に開帳される。そっか…。御開帳中やったのね…。そうと知っておれば、拝見してきたのに…。明らかに、予習不足であるが、これは「また来なさい」ということだろう…。そういうご縁が結ばれたと思えば、ありがたい話ではないかと、自分を慰めておく(笑)。

写真では、あえて人が写りこまないようにしているのだが、実際には正月三が日ということもあって、大黒の村人の参拝が絶えない。皆さん、一族郎党でおいでになって、御祈祷やお加持を受けてられる。ここに集う人たちの信仰心の篤さをうかがい知ることができた。

御朱印をいただいている間、待たせてもらった本堂横の七福堂には、日本最大一木造大黒天が祀られている。また、上り框には、ドーンと大黒さんが鎮座されており、もちろん、頭から足先まで撫でまくるという、欲望の塊のような小生であった…。

その七福堂の前には、宝船に乗った七福神の石像。多分、手前の手のひら型の椅子?に腰かけて、記念撮影をどーぞ、ってところかな。かなり縁起の良いフォトジェニックな光景である。

本堂正面に、大黒天以外の七福神が並ぶ。それぞれに御利益があるので、これまた欲どおしい小生は、皆さんに「よろしいお頼み申します」と、「まんまんちゃん、あん」するのであった。で、肝心の大黒さんの石像は?と思っていたら、境内の別の場所にあった。

多分、このエリアは小生の高校時代にはなかったと思うが…。あったかもしれない(笑)。

本堂に向かって右手に行くと、いかにも「最近、建てました」みたいな新し気な堂宇が二棟並ぶ。

上写真「佛殿」には、釈迦牟尼仏が祀られ、下写真「法堂(はっとう)」には、快慶作の観世音菩薩が祀られている。法堂の前には、六地蔵尊が並ぶ。

そして、こちらにデーンと構えて、福々しい笑顔を参拝者に投げかけておられるのが、大黒天さんの巨大石像。

いやもう、お会いできて光栄です!その御尊顔を拝しただけで、この1年が素晴らしいものになることを確信できます。ってくらい、幸福度満点のお顔である。

役行者ゆかりの寺ということで、役行者が腰かけたという石が祀られている。

中国清代の鐘」は、一つ願い一つ撞くと願いが叶うという「一願一撞の鐘」。

本堂の真正面、境内の突き当たりというべき場所には、「三面大黒天堂」。一願一撞の鐘の写真の左奥になんとか写っているけど…。これはご縁です、また来ます(笑)。三面大黒天は三面六臂で、大黒天・毘沙門天・弁財天の三天合体というから、結構いかついんだろう。「右側からお参りください」ってなことを書いてあったが、何か意味があるのかね?

<墨書>
奉拝 丗一年一月三日
大黒天
大黒寺

<朱印>
日本最初大黒天
(中央の梵字、わかりません)←だれか教えて!
日本最初大黒天

ちなみに、この日は、大黒さんの御朱印をいただいたが、ここは「河内西国巡礼八番札所観音霊場」なので、そちらの御朱印もいただける。ということで、今回、きちんと撮影できなかった三面大黒堂をお参りする際に、そちらの御朱印もいただくことにしよう。

さて、この界隈、古墳だらけの土地である。応神天皇陵を筆頭に、大小さまざま、有名無名、どこを向いても古墳とぶどう畑である。「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産登録を目指しているのは、ご承知の方も多いと思うが、ここ羽曳野市の熱の入れようも大変なもんだというのを、この日、目の当たりにした。

おなじみの?「つぶたん」が、三輪トラックとおぼしき車で、キャンペーンに走り回っているではないか! この「つぶたん」、小生のように羽曳野市と縁のある者なら「あ、これはぶどうの妖怪変化かなんぞやな」と察知できるが、それ以外の人には、なんのこっちゃわからんと思うのだが…。茄子に見えないこともないしねぇ。と言うかや、いつの間に、こんなゆるキャラを作っていたんだ、羽曳野市よ!

で、「つぶたん」が小生にはどうしても「ぶつだん」に見えてしまうのだが、どうしたもんだろうか…。ま、がんばりたまえ!

がんばりたまえ、と言えば…。

御朱印をいただいた際に、「こちらもどうぞ」といただいたのが「商売繁盛」のお札。まあ、参拝中はあれこれとお願いごとをしたが、実際のところは、商売繁盛とまではいかなくとも、毎日、メシが食えるだけ儲けさせていただければ、万事OKです(笑)。

<ところ>大阪府羽曳野市大黒499 <あし>近鉄南大阪線駒ヶ谷駅徒歩5分

確かめなくてはならない点も多いので、もう少しこのお寺について学習を深めてまた、参拝しようと思う。高校3年間毎日通っていた場所、その気になれば、明日にでもまた来れる場所でもあるしね。ただし、その都度、大幅改稿となっているはずだ(笑)。

(平成31年1月3日 参詣)




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