素浄瑠璃
第20回 文楽素浄瑠璃の会
数えて20回目の開催となる「文楽素浄瑠璃の会」。
20回目という事で、何か記念的なことでもやるかな~と淡い期待も抱いていたが、何事もなく、いつもの段取りで淡々と進んでいく(笑)。
『冥途の飛脚』淡路町の段
咲太夫、燕三
お馴染みの大阪市大大学院、久堀裕朗せんせの解説が上演前に付く。非常に専門的な内容で、小生には難しすぎる(笑)。大方はパンフにも書かれてあるので、そこはまあ安心だが、あれ、パンフ無かったらお手上げよ。
咲さんは、最近、腹力が弱くなったのか、どうも声にハリが感じられなくなってしまっている。ただ、「しんどそう」って感じではないので、その点は安心。「どこが?」とたんねられて「ここや!」と指摘は難しいが、やっぱり咲さんならでは、咲さんでないとここはこんな具合には聴かせられへん、ってのがいくつもあって、「ああ、やっぱり凄いな、この人は」と感心したりもする。
一度は思案、二度は無思案、三度飛脚。戻れば合はせて六道の、冥途の飛脚と
ってのは、ぐさっと来る。そこに至る
「措いてくれうか」「行て退けうか」
の忠兵衛の繰り返し台詞で客席から笑い声も聞こえたけど、あの笑いは何なのやろ? 何がおかしいのやろ? 笑った人に質問したいなあ…。最近、文楽でも歌舞伎でも、想定していない場面で笑いが起きること多い。
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『菅原伝授手習鑑』桜丸切腹の段
千歳、富助
このところ『菅原~』三昧である。翌週には「上方歌舞伎会」でもこの「桜丸切腹」がかかる。まあ、色んなヴァージョンで観て聴けると思えば、これほど幸福なこともないわけだから、ポジティブに受け取っておこう。
千歳はんなら、もはや余裕でしょ、ここを丸々語りきるのは。そんなわけで、ここは事前の久堀せんせの説明にも出てきた「筑前風」とやらに、耳を凝らす。なんでも今年は豊竹筑前少掾の250回忌らしい。この「桜丸切腹」は、その筑前少掾の初演曲ということで、「筑前風」と呼ぶとのこと。その特徴は、声小さく低い調子で、節を細かく派手で、という「一体、どっちやねん?」みたいな調子だという。千歳はん、声大きく決して調子は低くなく(特別高くはないが)、ダイナミックで派手というタイプだから、「筑前風」がどこまで徹底できるのか?と、注目したいところだが、そういう聴き分けができない三流見物人の小生なんぞは、「とにかく、白太夫と八重さんのやりとりで泣かせてくれればそれでよし」「桜丸切腹の哀感と潔さが伝わればそれでよし」、この2点をクリアしてくれれば、何の文句もございません、って奴だから、その筋で行けば、この日もしっかり聴かせてもらいました、ってところで、すべてはOKであった。
『源平布引滝』松波琵琶の段
津駒、藤蔵
夏休み公演で『源平布引滝』がかかり、その際に、「実盛物語」に至るまでのイマイチよくわかってなかったから、その経緯が今回はよくわかってよかった、ってな風なことを記したけど、今度はさらにその先のハナシ。原作四段目を書き替えた「増補もの」なので、スピンアウトの傾向もあり。聴きどころは、多分、「泣き上戸、笑い上戸、怒り上戸」の酔漢3人の語り分け、太棹三味線を使った琵琶の音色の演奏か。
とりわけ、藤蔵が見せた太棹での琵琶の音ってのは、こりゃエエもん聴かせてもらいました!とばかりに客席から大きな拍手が。三味線に駒を二つ掛けて、糸を微妙に浮かせることで、あの琵琶独特の音に模すという技である。「こんなこともできるんや!太棹、恐るべし!」って感じで、ご見物の皆の衆の目は、三味線に釘付けだったのである。
物語自体は、どうなんざんしょ? 『源平布引滝』は「実盛物語」で終わっておくのが無難なのかもね、と思った次第。まあ、人形がつくと印象も変わるんだろうけど…。
パンフに、演者の言葉が載らなくなったのね?
結構、あれ好きだったし、実はブログにする時のネタ元にもなっていたのにねぇ。復活を大いに望む! それと、第20回の節目なんやから、せめて1回目から19回目までの演目、演者一覧表くらい載せておくべきやろ、ちゃうかい!?
(平成29年8月19日 日本橋国立文楽劇場)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。