【上方芸能な日々 文楽、素浄瑠璃】文楽三昧

人形浄瑠璃文楽
文楽若手会

香港主権移交関連に力を力を込めているうちに、すっかり忘れてしまっていた文楽関連あれこれだが、正確に言うと忘れていたわけでなく、アップ時期を逸したというところ。
ま、だからと言って完全スルーも、情のない話なんで、ここはサラ~っと…(笑)。

寿柱立万歳(ことぶきはしらだてまんざい)

睦、靖、小住、寛太郎、錦吾、燕二郎、清允
(人形) 玉誉、紋臣
4月公演で、床にベテランが居並ぶこの演目で、太夫がまったく合ってないと、かなり辛辣に記してしまったのだが、あれから比べると、まだ今回の方が聴けた。あくまでも「聴けた」というレベルだ。「若手会」と言っても、それなりに年数積んでるんだから…。

菅原伝授手習鑑

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「佐太村」はなく、4月公演では演じられなかった「車曳」が入る。そのためか、「寺子屋」には全神経を傾けて聴き入るというところには至らなかった。「佐太村」だけを若手会で聴かせてくれた方が、各人のレベルがはっきりわかったんじゃないかな?と思ったりするが。

「車曳の段
松王:小住、梅王:咲寿、桜丸:睦、杉王丸:亘、時平:靖
清丈
昨年は小住が一つつかんだな、って感じたけど、今年は咲寿が目覚ましい。4月公演でも「お?」と思わせたが、その勢いを維持して今回も聴かせた。睦は桜丸は「ニン」に合わない気がした。亘はちょっと割を食った配役というところ。靖はこのメンバーでは最も安定した力を見せるも、時平としては物足りなさも感じた。

「寺入りの段」
亘、清公
これという印象が残らなかったのを、「了」とすべきか否か、判断が難しいところ。

「寺子屋の段」
前:芳穂、清馗 奥:希、龍爾
芳穂、希にはこの段を丸々語らせるくらいしけりゃならんし、語ってもらわなアカンやろ。分けたことで「これからの寺子屋は前後に分けるのを通例としますよ」と宣言されたみたいな気分。3年前の住さんの引退公演では80歳超える嶋さんがここ、丸々一人で語ってる。ま、4月の襲名披露狂言での呂太夫でさえ咲さんと分けたんやから、もはや一人でやれる太夫は途絶えたということか…。

(人形) 松王を「車曳」で玉翔、「寺子屋」で玉勢。玉翔は4月によだれくり遣っていて、好印象だった分、今回、松王遣ったことが、小生の中ではマイナスに作用した感じ。これは本人の力量の問題ではなく、役の違いによるもの。ちょっと損したかな。もっとも、お客のすべてが4月のよだれくりを観たわけでないから、OKなのかな。玉勢は松王の心の揺れ動きをよく見せていたと思う。戸浪の紋吉、千代の蓑紫郎ともども、緊迫した場面を作りあげていた。

(平成29年6月29日 日本橋国立文楽劇場)

 

三回忌追善
九世竹本源太夫を偲ぶ会

早いもんで、源太夫師が亡くなって3年となる。
故人を偲び、思いを受け継いでゆこうという追善公演が、子息の鶴澤藤蔵によって開催された。

4月公演中、幕間にロビーに長机を出して券売に勤しんでいた藤蔵夫人。本公演以外、特に個人主催の会には行かない主義の小生だが、4月公演のある日、「これ、行った方がええかもね」と思い、チケットを購入した。いや、予約した。赤貧生活を送る小生、恥ずかしながらその日は生憎持ち合わせがなく、予約するしかなかったのだが、その後の「事務方」(恐らく藤蔵夫人だろうが)の大変丁寧な対応に感銘を受けたのである。いやもう、ちゃんとしたはるわ。

さて、源太夫師であるが、小生には源太夫や前名の綱太夫よりも、織太夫と呼ぶ方がなじみがある。パンフに寄せらた清治師の偲ぶ言葉にも、「織太夫がしっくりくる、一番輝いていた時代」とあるから、やっぱ、そう思ってる人が多いんやろうなと。

そんな織さんの三回忌追善公演、まずは藤蔵と産経新聞の亀岡典子記者との対談で始まる。

「対談 九世竹本源太夫を偲んで」 鶴澤藤蔵 亀岡典子

貴重な音源や映像、さらには遠い昔の写真の数々などが披露され、それぞれのエピソードが語られる。

『妹背山婦女庭訓』の「妹山背山の段」の音源と映像が印象に残る。まず披露されたのは、昭和35年の音源で、当時28歳の源太夫師が妹山、35、6歳だった住さんが背山。二人とも声が若々しいけど、非常に完成度が高いことに驚かされる。つぎに披露された映像は、平成22年4月の『妹背山婦女庭訓』の「妹山背山の段」。こちらもまた源太夫師が妹山、住さんが背山を勤める。50年経過して、もちろん若々しさや瑞々しさはないが、齢を重ねたからこその滋味が漂う。この公演、小生も聴いていたのだが、最高峰の妹山背山を聴けて、感無量の気分になったものだ。お互い、入門日が同じだったことで、ライバル心以上に信頼感で結ばれていたからこその至極の浄瑠璃だったのだろう。

芝居好きで元々役者志望だったという師の、武部源蔵役の映像も流れたが、こりゃもう本職顔負けの武部源蔵であった。

とにかく文楽の引き出しの多さでは他紙の記者の追随を許さない亀岡女史と、源太夫の子息であり相三味線を長く務めた藤蔵の対談だけに、もっと聞いていたいと思うも、ちょうど時間となって、お仲入りに。

鬼一法眼三略巻

「菊畑の段」 津駒、千歳、呂勢  藤蔵
先の対談で藤蔵曰く「これはリベンジみたいなもの」。源太夫&清治の床で、清治師の体調に急変があった際、故八介と藤蔵が床の裏に居合わせており、八介に「君のお父さんなんやから君がやり」と言われて、急ぎ清治の方衣と袴を着けて代役で登場したと言う。あまりにも急なことで、なんとかつじつまを合わせるので精いっぱいだったため、「怒られるやろな~」と思いきや、源太夫師は一言、「ご苦労はんでした」。以来、リベンジしたいと思い続けるも、父子での演奏は実現せぬままに。そして今回と相成る。
名作だけど、あんまり舞台にかからない段だけに、しっかりと聴くようにした。で、気づいた。呂勢と藤蔵って、すごい相性バッチシではないかと。うん、これは非常によろしいなぁ。

「五条橋」 津駒、呂勢  藤蔵、清志郎、清馗
打って変わって、五条橋は食傷気味。「菊畑」だけでもよかったかも…。

20代のころ、文楽に来て「怖そうなおっさん」「機嫌悪そうなおっさん」「底意地悪そうなおじやん」が目白押しだったのが懐かしい。越路師匠、住さん、伊達はん、織さん、十九さん、先代の燕三師匠、人形の先代勘十郎師匠、玉幸はん…。枚挙にいとまがないないんやが、今、そんな人誰もいてまへん。まあ、「日本人の顔つきが時代とともにしゅっとしたんや」と言われたら、そりゃそうかも知れんけど…。そんな「怖そうなおっさん」「機嫌悪そうなおっさん」「底意地悪そうなおじやん」であった人達が次々とが舞台を降り、世を去り、織さんも三回忌。文楽が「軽く」なってしまった気がするのは、小生だけやろか? そんなことをつらつらと考えながら、この日の公演を拝聴していたのであった。

(平成29年7月8日 日本橋国立文楽劇場)



 


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