【御朱印男子 7】紫雲山葛井寺

御朱印男子
紫雲山葛井寺

かつて近鉄バファローズの本拠地、藤井寺球場があった藤井寺市の名称の由来となったのが、今回訪れた葛井寺。

藤井寺市へは、近鉄阿部野橋駅から準急で藤井寺駅まで約20分。南河内の中核都市であり、大阪のベッドタウンである。四天王寺学園など学校も多く、住んでよし学んでよし、交通至便よしの土地だが、かつてほど人がわさわさとうごめいているという印象がない。市内のいたるところに古墳があり、世界遺産登録を目指す古市古墳群の一角をなす。

かつての藤井寺球場跡地は現在、四天王寺学園小中学校となり、このモニュメントのみでしか往時をしのぶことができないのが寂しい。高校通学路線の途中駅だったこと、地元最寄駅から乗り換えなしで行けることもあって、幼いころから通い慣れた球場だった。大阪球場に次いで多く訪れた球場だ。南海ホークスの球団譲渡決定後、ホークスの大阪府下での最後の試合を断腸の思いで観たのもここだった…。

【8】聖武天皇勅願寺 紫雲山葛井寺(しうんざんふじいでら)

真言宗御室派。本尊は十一面千手千眼観音菩薩(乾漆千手観音坐像=国宝)現存最古の千手観音像にして大阪府下唯一の天平仏で、毎月18日に御開帳。

寺伝に亀神2年(725)に聖武天皇の勅願により行基の創建、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされる。永正7年(1510)の勧進帳には、聖武天皇の勅願によるおよそ2㎞四方の七堂伽藍が建立され、絵図では、金堂、講堂、東西両塔という薬師寺式の伽藍配置であったとみられる。一方で、百済王族子孫の一族、葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳時代の建立との説が有力とされる。

『日本書紀』に、葛井氏は吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜る。後に葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建と曰く。

室町期には賑わうも、明応2年(1493)、戦火に遭い、永正7年(1510)には大地震の被害で寺の諸堂すべてが倒壊。18世紀後半に再建が進み、現在の形になる。

IMG_4360上の写真が本堂。延享元年(1744)から30余年に及ぶ難事業の末、安永5年(1776)に完成。 蟇股(かえるまた)や頭貫(かしらぬき)と呼ばれる豪華な彫刻があしらわれており、本尊で国宝の乾漆千手観音坐像がまつられている。

左の石灯篭は「紫雲石灯篭」といい、『聖武天皇御寄附 寫紫雲石燈篭』と銘がある。これは明治時代に造られたレプリカで、本物は大阪府美術品に指定されており、寺の裏庭にて管理されているとのこと。

花山法皇が参拝した折、本尊の眉間から光が射して、この灯籠から紫雲がたなびいたとの伝えがある。中央の松は、「旗掛の松」。楠木正成と息子の正行(まさつら)、正時、正儀は葛井寺境内に陣を敷き、この松に菊水の旗を掲げて戦勝祈願したところ、細川顕軍に勝利。以来、この松の松葉は三人の息子にちなみ、三葉ができるようになり不思議な力が授かるとされている。いわゆる「三鈷の松」である。「ふふ~ん」って通り過ぎたので、松葉を見てはいないが、実際に三葉があるらしく、これを探しに来る人も多いとか。今度、よく見ておこう。探し当てた暁には、ここにUPするので折々にチェックをお忘れなく(笑)。

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近鉄南大阪線藤井寺駅南側の商店街を5分ほど歩くと、左手に寺の西門が見える。「四脚門」と言い、慶長6年(1601)に豊臣秀頼により建立された旧南大門を天明5年(1785)、ここに移築したものといわれており、葛井寺で現存する最古の建物であり、国の重要文化財に指定されている。これまでずーーっと何十年もの間、「市場側の通用門」程度に思っていた(笑)。

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IMG_4365現在の「南大門」は寛政二年(1790)から10年かけて完成される。三間一戸、入母屋造本瓦葺のまことに立派な楼門。両脇の仁王像も威容があり、寺の風格を感じさせる。

この楼門の前の角に、こんな道標があった。ここにこれが立っているのは、何十年も前から気づいてはいたが、まじまじと眺めるのは実はこれが初めて。これまでなんとボヤーっと道歩いていたのか…(笑)。アホですなホンマに。

右 つぼさか よしの はせ いせ
左 道明寺 たつた ほう里うじ なら

こりゃすごいね。もうねえ、現代人の脚力では、道明寺までここから30分ほど歩くだけでへとへとだわな。それが、吉野だの長谷寺だの、挙句はお伊勢さんだのと、どんだけ歩くねんと。いつの時代の道標かは知らんけど、信仰への熱き思いが伝わる貴重な石柱。

境内の一隅には、こんな文化遺産も。

IMG_4362葛井寺が広告主となった、近鉄バファローズの試合経過速報版である。ネットで速報はもちろん、生中継だって観られる便利な時代になったが、そんなものはなく、こうした速報版や巨人戦の合間に報じられる「他球場の途中経過」だけが頼りの時代。隔世の感とはこのことだ。わずか20数年前の話だ。この速報版はおそらく、藤井寺市内のどこかにあったものを寺が引き取ったのだと思われる。近鉄に無理を頼まれて広告掲出したはいいが、球場も球団もなくなった。「撤去、処分するくらいなら引き取ろう」ということだろう。でも生き延びる先があってよかったなと思う。藤井寺市民の「集団の記憶」である。


<墨書右から>
奉拝
平成廿九、二、三、
大悲殿
葛井寺
<朱印・宝印>
西國第五番
(宝印)蓮華座に火炎宝珠を置く。宝珠に梵字「キリク」で本尊千手観音の種子を記す
葛井寺納経印
<金印>
右に西国三十三札所第五番
中央に合掌のイラストと「慈悲の道」
左に草創一三〇〇年
金印は、来年が西国三十三所草創1300年にあたることから、記念の特別印。できれば、今年と来年で三十三札所を回って満願したいものであるが、はてさて…。
ほかに、河内西国三十三所特別客番、神仏霊場巡拝の道第59番でもある。

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<ところ>大阪府藤井寺市1-16-21 <あし>近鉄南大阪線藤井寺駅から徒歩5分

(平成29年2月3日参詣)



    


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