人形浄瑠璃文楽
豊竹英太夫改め六代豊竹呂太夫襲名披露
六代豊竹呂太夫の襲名披露となった文楽4月公演も、大入り袋の出る大盛況のうちに千秋楽を迎えた。初日は、文楽劇場前の桜が雨に濡れながらも、満開に咲き誇っていたが、終盤にはすっかり葉桜となっており、例年よりも季節の進み具合が早いように感じた。
今公演は、第一部を3回、第二部を2回見物した。例により、三流見物人が感じたことなどをざっと記しておく。
<第一部>
寿柱立万歳(ことぶきはしらだてまんざい)
襲名披露興行における祝儀もの。初日を聴いた感想、はっきり言うとくわ、「これはアカン」と。太夫がもうバラバラ。公演期間中の早い段階でびしっと合うのかどうか…。人形も平凡すぎる。三味線の奮闘が救い。
1週間後、再度見物。太夫は相変わらずあきまへん。人形はけっこういい感じになってた。そして終盤に三度目の見物。結局、ここまで来ても太夫はバラバラ。太夫の襲名披露公演で、この掛け合いはあまりにも残念。
菅原伝授手習鑑
「茶筅酒の段」「喧嘩の段」「訴訟の段」「桜丸切腹の段」
初日、翌週。芳穂、咲寿、靖、文字久の流れが非常に耳に心地よく、特筆すべきは、抜擢された咲寿であったのは以前に記した通り。公演終盤は咲寿に代わって、小住が「喧嘩」を語る。エエ勝負。ただ今公演は、咲寿に軍配が上がったと感じる。「突き抜けた」感じがよかった。思えば、「訴訟」の靖もある時に、こんな具合に「おや?」と感じたときがあり、そこからぐんぐん伸びてきた。咲寿にとっては、そういうきっかけの公演が「ああ、あのときの『喧嘩』か」と思えるような日々であってほしい。
「桜丸切腹」は、これまでは住さんの独壇場だったが、当然のごとく弟子の文字久が受け継ぐ。なるほど、伝承とはこういうものかと納得する場面が多々あったが、住さんなら万雷の拍手となった場面で、客席から何の反応も起きなかったのは、見物側が「まだまだ、顔やないよ」と思ってのことなのか、反応すべき場面というのを理解していなかったのか、どっちにしろ厳しい現実を見た思いが。
人形は、蓑助師匠の桜丸は別格と言うか、別世界として、松王の玉男、梅王の幸助は、劇中で白太夫が喩える性格をよく分かる形で見せていたように思う。
豊竹英太夫改め 六代豊竹呂太夫
襲名披露 口上
前列に下手から、勘十郎、咲太夫、六代呂太夫、清治
後列は両脇に直弟子、中ほどに越路門下と先代呂太夫門下、藤蔵という配置。
咲さんの口上、「『ろ』の次は『わ』を目指して」と、呂太夫の祖父、若太夫の名を襲名することに期待を寄せる一方で、一時、咲さんの祖父・綱大夫の内弟子としてともに生活した時の思い出話も披露。「当時は私は夕方になると『青い灯、赤い灯』に通ってたんですが、彼は見向きもせずに小説や詩をたしなむ文学青年でした。が、聞くところでは今や彼の方が『青い灯、赤い灯』に通ってはるそうで…」と笑いを誘う。
続いて清治師匠から祝いの言葉。「先代の呂太夫君は文楽に似つかわしくないほどの美男子で、雑誌のモデルをやったり映画に誘われたりしたほどでした。こちらの新呂太夫ですけとも…、まことに文楽に似つかわしい顔で…」。客席大爆笑。これが大阪の口上。舞台も客席も笑って襲名を祝う。
勘十郎師はまじめに「同期として一層の活躍を」とエールを送った後、海外公演のエピソードを披露。こんがり日焼けした若き日の呂太夫を想像するに、これまた客席、大爆笑。新・呂太夫の人柄でんなぁ。
「寺入りの段」
呂勢、清治の「寺入り」というまことにもって襲名披露にふさわしい「御馳走」な床。よだれくりの玉翔以下、寺子の人形陣が過度にチャラけていなかったのが、『菅原~』の格調の高さを感じさせて良し。
襲名披露狂言「寺子屋の段」
3年前、住さんの引退公演における『菅原~』の通しがかかった折り、齢80の嶋さんがこの段を一人で熱演したのは、まだまだ記憶に新しい。今回、新・呂太夫と咲さんで分けて語るのだが、それは果たして文楽としてOKなのかどうか…。一人の文楽愛好家としては、ここは呂太夫が一人で通して語ってほしかった。襲名の意気込みが大いに感じられる語りに観客がグッと引き込まれていただけに、甚だ疑問であったし、勿体なくも感じた。
咲さんの後半部は、さすが第一人者と唸らざるを得ない語り。ビジュアル展開をメーンにしてこの芝居を見せられると、それこそ正視に堪えない凄惨なシーンになるわけだが、舞台に並ぶ登場人物(人形)の心=情を浄瑠璃が見事に言語化してくれて、ハンカチが手放せないシーンとなるところに、「文楽は聴くもの」という意味が見えてくる素晴らしい段である。
疑問や不満もあることはあったが、「いろは送り」までのクライマックスがあったおかげで、それらは多少薄らぎ、「結構な襲名披露狂言でした」となったというところ。
1階の展示室で、歴代呂太夫の展示会を開催していたので、一部、二部入れ替えの時間に見てきた。先代の呂太夫師が懐かしい。さらに四代目呂太夫、すなわち嶋さんの呂太夫時代の展示物も。そのほとんどが呂勢太夫の所有物だというのには、ちょっとびっくり。いずれ呂勢が呂を襲名する日が、となるのかなぁ…。
<第2部>
祖父は山へ柴刈に 祖母は川へ洗濯に
楠昔噺(くすのきむかしばなし)
◇初演:延享3年(1746)、竹本座
◇作者:並木千柳、三好松洛、竹田小出雲合作
『太平記』に取材し、後醍醐天皇方の楠正成と六波羅方の宇都宮公綱の対立を軸とした全五段時代物だが、現在上演されるのは三段目のみ。文楽劇場では12年ぶりの上演。
「碪拍子の段」
通称「どんぶりこ」。昨年の「文楽素浄瑠璃の会」で聴いた段。床はその時と同じく、咲甫、清友で。
「むかしむかし、その昔祖父(じい)は山へ柴刈に祖母(ばば)は川へ洗濯に…」
で始まるので、てっきりのどかな昔話かと思うと、そこはやっぱり楠正成と宇都宮公綱の敵対関係の物語なわけで、やがて次の「徳太夫住家の段」での、この老夫婦の悲劇へと展開してゆくのだから、浄瑠璃と言うのは気が抜けない。
老夫婦の住まい、すなわち「徳太夫住家」が「河内の国、松原村」というのは浄瑠璃で語れているとおりだが、その松原村が現在の松原市だとすれば、「生駒山、平岡山(多分、現在の枚岡?)」へ柴刈に向かう祖父(じじ)=徳太夫はどれほどの健脚の持ち主かと、驚愕するのだが、この松原村が果たして現在の松原なのかどうかは、よくわからんね…。
二人のやり取りの軽妙さは、咲甫らしい表現で客席を沸かせる。
徳太夫住家の段
中:始、喜一朗
奥:千歳、富助
始も掛け合いから抜け出て最近は、こうした場を任されていることが多い。まあいい感じなんじゃないかな? 後は、「いい感じ」から「お、来たな、始太夫も!」と思わせてくれれば。
今回の千歳はんは、ちょい苦しかったかな? 初日、せっかくええ雰囲気で来てたのに、終盤、突如として「あちゃ~!」な雲行きになってしまった。この「あちゃ~!」、文楽に通い慣れた人なら「ああ、例のあれね」って多分わかってもらえる思うから詳細は省くけど、結局、上述の文字久はんと同じで「ここ、客席から手が入る場面ちゃうん?」ってところでも、反応なし(たまたま、小生が見物した日がそうだっただけかもしれないが)。結局、終盤に2回目の見物をしたときも同様だったので、そのまんまで千秋楽を迎えてしまったんだろう。
しかし、襲名披露の興行で、いくら「文楽とはそういうもんでっせ」とは言え、こんだけ人が死んでしまうってのは、どうしたもんだかねぇ…。さらに、この次の『曾根崎心中』が目当てのお客が多い中で、楠正成の物語はなかなか厳しいものがあったと思う。人物相関図が番付に載っていたけど、そんなややこしい演目をここでやる必要があったのかどうか…。
曾根崎心中
この演題がこれほどまでに人気なのは、何と言っても上演時間が1時間半程度と、映画1本観る感覚で見物できる点にその理由があると思われる。江戸期より封印されていたこの狂言が戦後復刻された折に、曲も詞章も現代にフィットする形で、新『曾根崎心中』に生まれ変わったことで、それが可能になった。手がけた野澤松之輔の功績である。
あれこれ説明の必要もなく、これと言って特筆すべきものもなかったので、省略する。
今回、徳兵衛を清十郎が遣った。この春、研修を終えた研修生が豊松清之助として、清十郎師の門下となった。大変喜ばしく思う。と同時に、研修生君、非常にいい師匠に付きましたね! きっと懇切丁寧はもちろんのこと、明るく楽しく指導してくれはると思うよ。
あと一点。道行の掛け合いが非常に美しかった。朝イチの掛け合いがヘロヘロだっただけに、余計にその完成度の高さが目立った、ではなく、耳立った。
終盤の見物で、『曾根崎』にもかかわらず、客席が6割程度だったのを見て、『曾根崎』の神通力もそろそろ限界に達したかな? と感じた。まあ平日の第二部に6割入ってりゃ上出来だとは思うけど、何分、『曾根崎』だけにね…。
(平成29年4月8日、16日、24日 日本橋国立文楽劇場)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
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