六四27周年
香港の闘争は継続されるか?
いきなり大上段に構えたタイトルを掲げてしまい、「さあ、どうまとめていこう」などと考えてみたが、香港のどんなだれが継続するのかは勝手にやってくれればいいことなんだけど、天安門事件に対する香港からの抗議や哀悼の声は、これからも継続はされると思う。ただ、ここ数年、その風景も随分変わってしまった。これは言うまでもなく、民主派という言い方で一くくりにされてきた一派が大規模分裂中であるからにほかならず、決して 中央からの圧力がとか、「中国化する香港」などという、日本のメディアが見出しに困って言い出したような背景からではない と思う。間接的には多少の影響があったかもしれないが、事実として、中央政府は一度たりとも香港の天安門関連行動に圧力はかけていない。
かつては民主党を軸とした「民主派」と「親中派」の二極構造だった香港も、「親中派」vs「民主派を含むその他諸々の勢力」という構図になっている。一昨年の雨傘行動などを見ると、「市民の大多数の賛同を得た雨傘行動」vs「親中派」という対立が想起されると思うが、雨傘行動が結局何も結果を生まなかったばかりか、民主派間や学生間の分裂や対立をもたらしたことを見ると、「何もしなかった」親中派の大勝利と言ってしまうのは、いささか強引だろうか?
こんな中で起きた「銅鑼灣書店関係者失踪事件」は、中央からのあからさまな香港への圧力だった。多分、ここまで明白に圧力をかけてきたのは返還後初めてのことではないかと思う。「失踪事件」などと言うと本人が勝手に姿を消したように見えてしまうが、現実には中央政府の香港市民拉致事件である。
小生は在住中、銅鑼灣書店には何度も足を運んでいる。場所が香港島サイドでもっとも繁華な銅鑼灣(Causeway Bay)だということと、勤務先からも近かったので仕事帰りにぶらっと立ち読みに行くという感じで、「中共に批判的な書物=大陸では禁書 を売る本屋」というイメージはほとんどなく、普通に「中国語の本を売る」店という感覚だった。「え!あの店主や店員が拉致されたんかえ?」と驚くと同時に、「やっぱり50年不変なんてあるわけないよな、あはは」と感じたもんである。
さて翻って「六四」である。
上述の通り、民主派がバラバラになってしまった以上、ビクトリア公園での恒例の追悼集会も従来以上に様子が変わるだろう。ま、これは今に始まったことでもない。すでに返還直後から見られた現象である。様々なマイナス要素が絡み合い、「純粋な追悼と抗議の場」ではなくなって久しい6月4日夜の「六四燭光集會=天安門事件追悼蝋燭集会」。ここのところ、「平反六四(事件の再評価)」「建設民主中国」を訴える声以上に、「全面普通選挙実現」など香港自体の民主化について訴える声が大きくなっていることが気にかかると、拙ブログでは再三申し上げてきたわけだけど、今年の六四は一連の天安門抗議行動をリードしてきた香港市民支援愛國民主運動聯合會(通称・支聯會=支連会)とその他の団体との二極化がより鮮明になった。
要するに、「中国の民主化は香港の民主化につながる」vs「中国のことはどうでもいい、香港の民主化あるのみ」の対立構図 である。
小生は15年間の在住期間中、毎年欠かさずに追悼集会前のデモ「愛國民主大遊行」と6月4日の追悼集会を現場で観察してきたが、返還前から「『平反六四』は当たり前として、『建設民主中国』ってのはちょっとお節介が過ぎるんじゃないか?」と少なからず違和感を抱いた ものだが、各大学の学生会が昨年から支聯會の追悼集会と決別して個々に「六四討論会」などを開催したり、香港当地という意味の「本土派」、さらには独立をうったえる「港独派」と言われる一派が討論会や独自の追悼集会を開催する動きをとるなど、かつて小生が感じた「違和感」が実際に香港人自身の行動に現れてきたことに、返還前の「民主という名の全体主義の時代」を思うと同時に、ようやくそういう声を上げ始めた香港人に「遅かりし由良之助」を感じずにはおれないのである。
と言うのは、先日、話題の香港映画『十年』を観たからである。5人の若手監督たちが綴るオムニバス作品で、10年後、すなわち2025年前後、返還から30年となる2027年を目前にした頃に「こうなっていて欲しくはない」と思った香港を描いたというものだが、10年後どころか今まさにそうなろうとしている香港が描かれているようで、切なく、恐ろしく、胸が詰まるような思いがする場面がいくつもあった。その中で時代遅れの玉子屋の主人が息子に「こんな時代になってしまったのは、我々の世代の過ちだ」というようなことを語る場面があって、印象深い。それがいつの頃の何に対する過ちなのかはっきりはしないが、小生は「民主という名の全体主義の時代」のことを言っているんじゃないかと思った。もちろんそうではないかもしれないが…。
さらに玉子屋は言う。「自分で考えろ」と。それほど自分で考えずに、「民主と言えば何でもOK」のような流れに熱狂していた返還前後。これを「民主という名の全体主義の時代」と言わずに何と言う?
ところで。
毎年のように追悼集会には、さて何人が集うのか?と、参加者数にまず注目が集まるわけだが、参加人数は一つのバロメーターとして重要であるが、それ以上に今年は支聯會以外の集会がどんなことを行い、どんな討論を繰り広げるのか?ということに注目せざるを得ないだろう。
上記は、6月4日の夜に行われた各派の追悼集会、討論会、集会とテーマ一覧である。
上から見てゆくと、
支聯會は従来通りビクトリアパークでの追悼集会を午後8時から。それに先立って午後4時からは討論会。テーマは「天安門事件再評価、逮捕の乱発停止を、一党独裁に終止符を、民主を勝ち取る」
香港大学学生会は午後7時から学内の中山広場で(豪雨のため屋内に変更)集会と討論会。テーマは「天安門虐殺の血はいまだ乾かず、香港人の前途やいかに」。「本土派」の本土民主前線の梁天琦(エドワード・リョン)発言人も参加した。
香港大以外の11の大学、専上学院=私大、短大、職業専門校の学生会は香港中文大学の邵逸夫堂(ランラン・ショウ・ホール)で「六四の意義を鑑み、香港の前途を構想する」というテーマの討論会。
熱血公民を中心とした「本土派、港独派」は、尖沙咀、観塘、大囲、西灣河、屯門の5か所で「本土(=香港当地)、民主、反共、建国」をテーマに集会。
とりわけ、中文大学の11学院学生会による集会は盛況で、邵逸夫堂には満場の約1500人が集った。ここには「本土派、港独派」から香港民族黨の陳浩天(アンディ・チャン)召集人、本土民主前線の黄台仰(レイ・ウォン)発言人、青年新政の梁頌恆(バギオ・リョン)召集人も参加している。香港大、中文大ともにこうした人士が参加したのは、香港の若い世代が「中国のことよりも香港のこと」という方向に傾いている ことのひとつの証だろう。
そして。
支聯會の追悼集会には、主催者発表で12万5千人(昨年比-1万人)が集う。これは2009年以降で最低の数だという。警察発表はなんと最高潮時で2万1800人(同-2万4800人)である。どちらの発表数を信じるかは現場にいた者のみが判断できることだが、ネットでの現地からのLIVEを見る限りでは、小生の目勘定では恐らく最高潮時で2万に届くか届かないかという程度だったと思う。毎年記するように「数の問題ではない」と言うものの、ここまで激減するとは支聯會も思ってもいなかっただろう。
おまけに支聯會は追悼集会で「本土派・港独派」にとんだケチをつけられてしまった。
追悼セレモニーが行われていたステージ上に、突如「本土派・港独派」のSimonと名乗る人士が乱入しマイクを奪い取り、「我地要香港獨立,唔要建設民主中國,我地要搞掂自己」(我々は香港独立を要求する、民主的な中国を作るなんて必要なし、我々は(香港人)自身のみの民主化を望む!)と数回叫んだ後に、支聯會の自警組織に取り押さえられた後、警察に身柄拘束された。
在住中、計15回この追悼集会の現場に立ち会っていたが、こうした乱入者は初めての出来事だったと記憶する。広いビクトリアパーク内での口論やちょっとした小競り合いはあったものの、数万の人々が注目するステージ上での「事件」は衝撃的である。
http://s.nextmedia.com/realtime/a.php?i=20160604&s=6996647&a=55186138
1989年の天安事件をきっかけに、「香港から抗議の声を上げ続けよう」「中国民主化のために香港人が戦いを継続させていこう」といった目的を持った各大学の学生会を巻き込んだ形で成立した支聯會、そして27年間継続されてきた香港の「六四」活動も、結局、香港にそんなゆとりや余裕がなくなってしまったことと、中央政府への不信感や大陸観光客に対する嫌悪感の高まりもあって、大きな転換期を迎えているようだ。
来年はまた、民主派から派生した新たな組織が、今度は「本土派」と対立するといった構図が生まれているかもしれない。
結局、それで得するのは誰か? を思ったとき、ただただむなしさがあるのみの、昨今の香港である。
とまあ、年に1回くらいは香港のことを真面目に真剣に考えてみたりするのも、また六四の季節あってのこと。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。