【上方芸能な日々 文楽】平成27年度 錦秋文楽公演<3>

人形浄瑠璃文楽
平成二十七年度 錦秋公演

11月23日、国立文楽劇場では無事に千秋楽を迎え、これで今年の大阪での文楽本公演は予定をすべて終えた。来年は年明け3日から嶋大夫の引退公演となる正月の舞台が始まる。

11月13日に第二部の二回目となる見物、21日には、これも二回目となる第一部の見物、この二回についてざっと振り返っておきたい。

IMG_2372今回の二回では、久々に「床本」を手掛かりにして、鑑賞した。

舞台の上に「字幕」が出るようになって数年、いまだに賛否両論。小生も導入当初は、「けっ!字幕なんて野暮なことを!」って思っていたが、いざ慣れてしまうと、どうしても浄瑠璃を字幕を頼りにして聴いていることが多い。で、正面を向いているにもかかわらず、肝心の人形に神経が集中していないなんてこともあって勿体ない限りだ。

数年前までは「床本をパラパラめくる音が耳障りやし、前向いて顔上げて舞台観てる人おれへん…」なんて言われてたのに。今回は、あえて「床本」を手元にして、太夫の語りを追ってみた。

結論から言えば、字幕で追うよりも何倍も浄瑠璃を堪能できた。字数・行数に制限のある字幕とは違い、床本なら、もう一度さっきの場面に立ち返ることができて、ややこしくなりかけた展開を自分なりに復習もできるから、便利である。その結果として、浄瑠璃はよく耳に入り、人形もまたよく見えるようになるから不思議だ。太夫は勿論、三味線も人形も「本読み」が芸の基本中の基本。ならば、観る側・聴く側もまた「本読み」が基本ということか…。ま、あくまでも小生の感じるところだが。

20151113席『玉藻前曦袂』の二回目見物。やっぱり面白かった。でも、前週は勘十郎のケレンの数々に面白さを見出していたが、今回は違う。

そもそもこの『玉藻前曦袂』は、怪異譚とか魔界ものとかで片付けてしまって良い作品なのかということが、公演に入る前から気になっていた。もちろん、怪異譚であり魔界ものであるのは、否定しようのない事実なのだが、それだけの話かと言えば、決してそうではない。前回、そこに気づいて観ていれば、もっと堪能できたのにと後悔。

幕間の弁当の時間までは、たっぷりと典型的な文楽を楽しめ、満腹で席に戻るや後半は、それこそ怪異譚、魔界ものの世界が繰り広げられ、「殺生石の段」はその延長線にありながらも、おかしみを交えて幕を閉じるという展開。

前半には九尾の妖狐も登場しない。勘十郎がケレンで客席を「うぉ~!」と言わせる場面もない。じっくりと浄瑠璃を聴かせる場なのである。中でもその重責を負っているのは、千歳大夫である。

IMG_2343「道春館の段」は、実はこの物語の一番の、いや唯一の聴かせどころで、その段の最高のクライマックスに千歳大夫が配されたということは、いずれは切場語りにという文楽側の思いの表れだろう。そういう目で見ているお客も当然多いし小生もまたその一人。期待が大きい分、この1週間前に聴いたときはちょっとがっかりしたもんだが、今回はこういうのを迫真の浄瑠璃と言うんだろうってな具合で大満足。何といっても、客席の反応が天地の開きだった。1週間前は出た時と引く時しか起きなかった拍手が、今回はしっかり、「クドキ」「モドリ」「大落とし」で万雷の拍手が来たのだから、別に贔屓でもない小生ですら「どうや!千歳大夫はすごいやろ!」ってドヤ顔になってしまう。

こういう場面は、お人形さんには申し訳ないけど、太夫に集中したい。それこそ、床本に時々目を落としながら、太夫に集中するのである。そうすると、不思議なことに視野の左端にちらちら見えているはずの人形たちが正面に見えているような錯覚を覚えるのだ。「いやいや、それはアンタが何十年も文楽通ってるからやろ」と言うアナタ、実際にやってごらん、きっとそんな体験できるから。
そのためには、かつての全日本プロレス、永源遥の試合を後楽園ホール最前列で観るような体験もせねばならないけど(笑)——-わかる人にだけわかる表現。

これも「床本効果」かもしれないが、なぜ九尾の妖狐が、ショッカーのごとく日本を魔界のものにしようと企てるこの物語が、『玉藻前曦袂』というタイトルなのかも、「道春館の段」の

脆くも枯るゝ芭蕉葉の、露の玉藻も潤ふ袖、絞りかねたる曦(あさひ)の袂

という一節で理解ができる。字幕は聴覚の補助にすぎないので、こんな具合に「なるほど!」と思えるかどうかは、ちょいと疑わしい。もちろんそんな能力を持った人もいるだろうけど。床本なら家に帰っても見直すことができるしね、ブログ書くにはもってこいの素材だわな(笑)。

もうひとつ前週に気になって仕方なかったのが、狐言葉「クワイ」。これは床本にも字幕にも「クワイ」となっているのだが、文字久大夫は「カイ」と言ったから、小生は混乱。「どっちやねん!?」と。今回、文字久師ははっきりと「クワイ」と言っていた。やっぱり狐言葉はこっちの方がしっくりくるよな。

(平成27年11月13日 日本橋国立文楽劇場)

★★★

20151121ozaseki続いては、第一部の二回目見物。前回は、どういうわけか最初から最後まですべての演目に入り込めず、ひたすらに憂鬱な半日を過ごしてしまったので、今回は楽しむぞ!と意気込んだのだが、馬鹿だね~、二度寝ですっかり寝坊してしまい、『碁太平記白石噺』の「田植の段」を見逃してしまう。ドアtoお座席できっちり40分。席に着いたところで、「浅草雷門の段」始まる。ちなみに、この日は待望の脚伸ばせる席(笑)をゲットできた。もちろん上演中にこんな行儀悪いマネはせんけどね。

碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)

■初演:安永9年(1780)、江戸外記座
■作者:紀上太郎(きのうえたろう=豪商・三井次郎右衛門)、立川焉馬(たてかわえんば=大工棟梁、落語中興の祖)、容陽黛(ようようたい=医者)など江戸通人による合作。江戸浄瑠璃の傑作のひとつ


「田植の段」

二回目のこの日、上述の理由で聴き逃す。馬鹿だね。ここを上演することで、「浅草雷門」、「揚屋」への背景がよくわかるというのに…。ましてこの段、今回は昭和63年7月以来の上演と言うから、実に勿体ない。で、初回見物のときのことを思い出すと、口の小住大夫がよかった。間違いなく何かをつかんだはず。次回公演に大いに期待が持てるものだった。それだけにもう一度聴いておきたかったのに…。二度寝は怖いよ~。

「浅草雷門の段」
口>希大夫、龍爾
申し訳ないが、何かコメントを残すには、出番の時間が短すぎた。
奥>咲甫大夫、寛治
津駒大夫休演につき、咲甫代演。だからと言って違和感全くなし。最初から配されていたかのような出来。寛治師匠との相性も悪くはなさそう。「姪よ」「伯父サア」の掛け合いも面白く、豆蔵どじょうが地蔵に扮して観九郎を騙して五十両巻き上げる場面も楽しめた。気のせいか、こういう場面多くないか、咲甫さん? 人形は勘一のどじょうが印象深い。某百貨店の紙袋もナイスアイデア。

「新吉原揚屋の段」
英大夫、清介
盤石の床。聴きごたえ十分。「姉を尋ねて三千里」というわけではないが、はるばる奥州から、吉原で売れっ子大夫になっているという姉の傾城宮城野を尋ねて江戸へ一人でやってきたおのぶちゃんは、田植では上方言葉(義太夫節だから当たり前)なのに、江戸へ来たら田舎言葉になっているのに気づく。一輔の美しい立ち姿が、おのぶちゃんが単なる順礼の田舎娘でなく、父親の仇討ちを果たすという固い決意を感じさせる。

 人形の充実が目立つ演目が多い中、この演目は床と人形のバランスが非常によい仕上がりとなっているように感じた。

桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)

■初演:安永2年(1773)、大坂豊竹座
■作者:未詳
*明和6年(1769)の『裾重浪花八文字』第六段「鰻谷八郎兵衛内の段」の改作


現在はもっぱら「鰻谷の段」のみが上演されるので、『鰻谷』と言われるこの演目。地味で「なんでそうなる?」な文楽らしい展開ということがいいのか知らないが、今公演演目の中でもこれが一番よかったという人が多い。が、小生はどうにも性に合わないようで、この「救いようのない話」はきつかった。

床は、靖・清丈→呂勢・清治→咲・燕三と、小生の好むメンツで進んでゆくし、人形も蓑助師匠、和生、玉佳とこれまた小生好みのメンバー。なのに、どうしても入って行くことができなかった。結局、第一部を最初に観たとき、『碁太平記』や『団子売』も含めてまったく身が入らなかったのは、この「鰻谷」が原因じゃないかと思ってしまう。非常に珍しいことではあるが、相性の悪い作品として覚えておくことにしたい。

団子売

1回目に観たとき、お臼の人形は絞壽師匠だったが、翌日から休演。動きに全く精彩がなく、「こういう紋壽さんは見たくないなあ」という感じだったが、案の定、翌日から休演となった。代演は勘十郎。期せずして、玉男の杵造と勘十郎のお臼という、現在の文楽におけるゴールデンコンビによる『団子売』が実現となった。まずは何よりも紋壽師匠の快復を待つのみである。

(平成27年11月21日 日本橋国立文楽劇場)


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