【Go! Go! HAWKS 2013 3】私家版・南海ホークス展 *旧ブログ

自分の持ち物をブログでお見せするなんてのは、あまり趣味のいい話じゃないと思うけど、まあ、博物館で南海ホークスの遺品や思い出を展示し、好評を博す時代だし、さらには「OSAKA CLASSIC」なる3連戦も開催されることだし、そんな世の中の波にちょいと乗ってみようかと。
ほんのわずかではありますが、見てちょうだい。(FB見た人、一部重複の旨、請原諒)

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昭和50年「ファン感謝デー」。各種イベント終了後、ファンをグラウンドに入れてサイン会。サインをしているのは佐藤道郎投手。手前に光ってわかりにくいが、子供の会の手提げ紙袋らしきもの。ここに色紙を一杯入れて、お目当ての選手の前に並んだのだ。たしかこの日は、内野席がほぼ全部埋まるほど来場者がいた記憶がある。小学6年生のときのことなので、定かではないが。

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昭和51年「ファン感謝デー」での藤原満内野手。この年からサイン会は「整理券」が必要となり、色紙は球団が用意したもの1枚の制限つきとなる。色紙1枚につき、7~8名のコーチ、選手がサイン。朝の7時過ぎには球場前長蛇の列。アタシは整理券配布場だった当時のチケット売り場の屋根に上って、行列を次々と飛び歩き、結局、整理券5枚程度はゲットしたと記憶。何枚も色紙を持つアタシを見た穴吹義雄二軍監督は「ボク!ズルしたらあかんがな!」と。それに対してアタシは「してませ~~ん!」って答えたと記憶。中1のとき。後ろの左端の少年の帽子が「子供の会」の帽子。

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球団が運営するファンクラブ組織として、「子供の会」(後に「少年ホークスの会」)と、高校生以上が対象の「球友会」があって、結局アタシは小学校5年生の昭和49年から南海最後の年となった昭和63年まで、ずっといずれかの会員であった。こういう人が案外多いのが南海ファンの特徴かもしれない。「子供の会」の会員証で唯一残っていたのが、1977年(昭和52)のもの。内外野席15回無料招待で、会員証の裏には何回来たかのスタンプ欄があり、この年は惜しくも14回(笑)。ただ、日曜はほぼ「ダブルヘッダー」だったし、日生、藤井寺、西宮、西京極にも行っていたので、トータルでは30回以上は観戦していたはず。その年のシーズン終了間近、野村監督解任。これ以降、南海はAクラス入りすることはなかった…。

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昭和60年(1985)10月18日、大阪球場でのシーズン最終戦の応援団用の「座席引換券」。応援団に席をひとつ空けてもらって観戦。試合終了後、門田博光選手が球場外で「おお!今日も来てくれてたんかいな!」って、声かけてくれたのが、いい思い出。この日、平日のデーゲームにもかかわらず、観衆1万で、年間動員数65万・1試合平均1万人を達成し、球団記録を作った日だったが、まさか3年後の10月15日が別れの日になろうとは、当然このときは知る由もない。

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その門田博光選手が通算2000本安打を達成した記念の色紙。実に粗末な作りである。版ズレもひどいし紙質もぺんぺらぺんのボール紙である。しかし、あの当時にすれば「南海も仕事早いやん!」と思わせる、速攻での発売であった。この試合はナマ観戦している。今か今かと待つファンが連日、大阪球場に押し寄せ、達成の瞬間、3万大観衆の門田コール大合唱に目頭が熱くなったのが懐かしい。大阪球場、最後のきらめきの日々だったのかもなあ…。

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昭和60年ごろの告知ポスター。南海の各駅や大阪球場近辺の飲食店などにも掲出されていた。モデルは新井宏昌選手。これは球場近くの「黒門市場」の商家の息子にもらったものと記憶。もちろん、彼も熱狂的な南海ファン。

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昭和60年代になると、応援グッズの販売が急速に進む。最初はシンプルなメガフォンだったものが、進化してゆき、こういう「カチカチ」と呼ばれるスタイルが登場。応援団のスタイルが、内野指定席での和太鼓・鉦・拍子木などから、外野席での洋太鼓・トランペットに移行する過渡期でもあり、メガフォン類も「大きな声を選手に届ける小道具」から、「打楽器として、より大きな音が出せるもの」へとなっていったと推察。来る「OSAKA CLASSIC」では25年ぶりに「本格稼働」の予定。

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その外野での応援をリードしていた「関西鷹狂(たかきち)会」は、現在も活動中。写真は、大阪球場最後の試合となった昭和63年10月15日。この光景は多分、8回裏の正真正銘「大阪球場での最後の応援」だと思う。いつのころからか、アタシの観戦定位置も、内野から外野に移動していた。理由は不明。賑やかなトランペットの応援にひかれて行ったというのもあるかもしれないが、わからない。そのころの「定位置」は右に振り返れば鷹狂会、左へ振り返れば速報版、そして見下ろせば山本和範が守っているというポジションだった。この日、鷹狂会では選手応援歌のコピーを配布していた。それもアルバムに貼っている。はがすと破れそうなので大事に、大事に…。

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南海ホークス最後の年は、球団創設50周年の節目の年でもあった。まさかその年に我が南海ホークスとの別れが来るとは…。むごい話である。最終年のファンクラブ「球友会」の会員証。

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南海からダイエーへ。1988年のシーズン終了後、広島県呉市で秋季キャンプに入ったホークスは、まだ南海のユニフォームを着用していた。某新聞社呉支局記者だった友人が、キャンプ初日を取材し、写真を送って来てくれた。「福岡ダイエーホークス」のまさに第一歩の瞬間。「歓迎 福岡ダイエーホークス」の横断幕が、悲しすぎた…。今見ても悲しい…。

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昭和31年に発表された球団歌『南海ホークスの歌』のSP盤。72回転だから家のオーディオではいまだ一度も聴いたことがない(笑)。灰田勝彦が軽快に歌い上げるこの歌は、南海ファンならだれも今でも歌える(はずだw)。2008年の復刻ユニフォーム試合で、京セラドームの「ラッキーセブン」にイントロが流れた瞬間、涙があふれて止まらなかった。周りを見れば、みんな泣いていた…。南海球団事務所閉鎖のどさくさに、譲ってもらった貴重な一枚。世の中にどれほど現存しているんだろうか? 一般には発売されなかったと聞いているしなぁ…。

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これも最後となった88年に、「50周年記念グッズ」のひとつとして発売された「選手ボイスメッセージCD」。何のことはない、選手の「がんばりますから応援よろしく」という声が入っているだけ、いかにも南海らしいお粗末なw記念グッズ。さらにメッセージの導入音楽が、球場に鳴り響く吉田捕手の応援ソングとくるから、「もうちょっとなんとかならんのか?」と突っ込みたい。「2曲目」に、大阪球場の「追い出し囃子」でもあるニニ・ロッソ『夜空のトランペット』。発売が三洋電機というのも珍しさ満点。写真は加藤伸一投手盤。まあ、これしか持ってないけどさw

長くなってしまいましたので、この辺でやめときます。

また、何かの拍子に、「おっ!」ってものが発掘されるかもわかりませんので、そのときはまた。





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