【上方芸能な日々 素浄瑠璃】研究公演・稀曲を聴く*旧ブログ

日本芸術文化振興会(国立文楽劇場・国立劇場)では、文楽公演における上演可能な演目の拡大を目指し、稀曲の復曲作業を行っています。
その一環として、国立文楽劇場が所蔵する朱入り本をもとに、国立劇場が平成23年度に復曲作業を行い、24年3月に東京において「あぜくら会」の会員限定で公開演奏した『大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』三段目「身替音頭の段」が大阪においても公開演奏されました。

会場は、文楽劇場の小ホールで、補助席も出ていましたが、それでも150人ほどが精一杯の空間。大変な高倍率の抽選を勝ちぬき、幸運にもこの機会に恵まれました。実際、「通」のファンの方で「抽選に漏れた」と嘆いていた方を何人も知ってますから、ホンマにラッキー。

すでに文楽との付き合いは30年に及びますが、人形無しの「素浄瑠璃」ってのが、やはりどうしても苦手でして、これまで敬遠してきました。しかし、春先に研修生の発表会で、ほんのさわりだけですが、素浄瑠璃を聴いて、「場面を想像する力」がこの自分にも、多少なりともついていたことに気づき、手始めにこの研究公演を選んでみたという次第。

本当なら、人形浄瑠璃として何度か舞台を見たことがある題材を選ぶべきで、実際、この翌日には若手による素浄瑠璃の会が開催されたのですが、そこはあえて、最初にハードルを上げて、舞台を見たことのない題材にチャレンジしてみようという意欲を、文楽の神さんが見透かしたのか、あるいは、そういう方向に導かれたのか、はたまた、単なる偶然と幸運なのかはわかりませんが、抽選に当たったのです。

結論から言えば、やっぱり「場面を想像する力」ついてましたね。落語なんかでも「想像の芸能」で、噺家のしゃべっていることを頭の中で想像して、「あははは」と笑うわけですから、考えてみれば浄瑠璃も同じこと。なんら敷居は高くありません。小生なんかはもう、若い人の「漫才っぽいお笑い芸」(あえてそう言う)のしゃべくりのスピードにはついては行けなくなってきましたが、浄瑠璃ならゆっくりとかみしめるように語ってくれますから、安心できます。ゆったりと流れる語り芸の中に身を委ねるのはよいものです。

研究公演 稀曲を聴く

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大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)

■初演:享保8年(1723)2月、大坂竹本座 太夫は竹本播磨少掾(初代政太夫・二代義太夫)
■作者:二代竹田出雲、松田和吉 近松門左衛門の添削
■明治25年(1892)以来上演が途絶えていたものを今回復活
*歌舞伎においても約50年間、上演が途絶えており、今回の復活は歌舞伎にとっても非常に意義深いことであるのは言うまでもない

 

三段目「身替音頭の段」

浄瑠璃 竹本文字久大夫
三味線 野澤錦糸

後醍醐天皇の最初の倒幕計画である正中の変(1324)の失敗、元弘の役(1331)で挙兵した後、各地で転戦する大塔宮護良親王を題材とする、五段ものの時代浄瑠璃。今回の復活ではその三段目の「身替音頭の段」を公演。

「身替音頭」とあるからには、もちろんストーリーは身替わりものでして、我が子の命を偉いお方のお子の身代りに、という例のアレが思い浮かぶわけですが、この「身替音頭」では、そのよくあるアレにさらに輪をかけて…という展開に。

詳しくは、将来、この段が人形入りの本公演狂言になったときのお楽しみに。って言っても、ネットで検索すればいくらでも出てくるわけですが。

今回は、三段目全段通して、文字久&錦糸でやったわけですが、聴いていて「あ、ここで切って、こっから先は切場語りが出た方がええかもね」みたいな個所も明らかにあるなど、初めての作品としては何かと収穫がありましたね。

いつになるかはわかりませんが、この浄瑠璃がきちんと舞台にかかる日が来るのが楽しみです。そのときはもう住、源、嶋の時代ではないかもしれません。今日語った文字久はその点では、ひとつのきっかけにもなるんじゃないですかね。

「明治25年以来の復活公演!」の際に、文字久が切場を語る…。う~ん、まだまだまだまだ先の話やな…。

埋もれている作品の掘り起こし作業は、大変な労力が必要だろうと思いますが、こうして東阪で「マーケティングリサーチ」かけて、好評ならば積極的に本舞台に向けての作業を進めてほしいです。

人気演出家による新作も必要ですが、現代における人形浄瑠璃文楽の本分はこうした地道な掘り起こし作業と、復活公演に向けてのリサーチや舞台化のための脚本演出の整理であるのは言うまでもありません。

(平成24年8月30日 日本橋国立文楽劇場小ホール)


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