【上方芸能な日々 文楽】美しい文楽*旧ブログ

例年、客入りは決して悪くはない「夏休み特別公演」だが、今年は例年にも増して入りが上々で、昨年比4割増しの動員だったとか。
「橋下効果」とか言う人もいるけれど、超人気演目『曾根崎心中』がかかる公演だけに、誰が何をどう言おうと、これくらいの入りはあって当然だろう、と小生は思います。

千秋楽前日、やっとのことで文楽見物に。
毎年のことながら、午前の「親子劇場」はお子たちに席を譲る気持ちで、パス。今公演はこの親子劇場も大盛況だったとかで、何よりのこと。
お子たちが、最初は退屈しながらも、最後は人形の一挙手一投足に釘付けになっている光景が目に浮かびます。
第二部も結局「幕見」で『伊勢音頭恋寝刃』を見たのみでした。

理由ですか?
『摂州合邦辻』と『傾城倭荘子』は、今現時点ではそれほど見たいという気持ちにならなかった。こういうもんです実際は。いくら文楽が好きだと言っても、あまり興味のない演目もあるわけです。それでいいじゃないですか。(ちょっと言い訳っぽいかw)
それはさておき。

人形浄瑠璃文楽
平成24年 夏休み特別公演
国立文楽劇場

1891792

『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』
古市油屋の段
奥庭十人斬りの段

■初演 天保9年(1838)、大坂
*寛政8年(1796)5月、伊勢古市の遊郭油屋で酔った医者が数人を殺すという事件がすぐに歌舞伎に脚色され、同年7月、大坂角の芝居で上演される
*文楽における現行の演出は明治18年(1885)7月、彦六座で上演されたもの

文楽においても歌舞伎においても、「夏狂言」の一つとされている、すなわち夏の定番演目。
以前、歌舞伎でも見たことがあります。そのときの主役・福岡貢は愛之助でした。今公演のパンフレットで秀太郎が「松嶋屋にとって大事な芝居」と語っておりますように、昨年の夏には、仁左衛門も貢を演じており、なるほどなあ、松嶋屋。

愛之助は飄々とした感じがどこかにあって、バッサバッサっと人を斬っていく貢の狂気の迫力が物足りなかったけど、仁左衛門ならすごいだろうね、見ておけばよかった…。
事程左様に、文楽と歌舞伎は同じ演目が多く、ある時など、松竹座の歌舞伎と文楽劇場の文楽が同時に同じ狂言かけることもあったりして、こういう場合には、芝居マニアの血が騒ぐというもの。「文楽はここをこう演じるが、歌舞伎ならこうなる」などを見較べるのも楽しい限り。
此度の文楽では、貢を遣うのは玉女。青江下坂を手に、次々と人を斬り殺して行く狂乱ぶりは、「油屋」で仲居万野らに愚弄される様と相対しますので、前段の「油屋」の万野、徳島岩次の憎々しさぶりが、キーポイントになるかと。
その「油屋」を語るは、文字久大夫。住大夫休演につき代演。う~~ん、ちょっとしんどいかな…。いやいや、実に丁寧に語って、師匠の代役をきちんとやり遂げようという気持ちはひしひしと伝わってはくるのですが…。

きちんとやるがゆえに、お紺の「愛想づかし」が弱くなってしまったのかな…。万野と岩次の憎らしさは結構伝わってきただけに、ちょいと残念。この辺に太夫陣の人材不足を感じてしまいます。
その分を、錦糸が三味線で、人形は玉女以外に、お紺の文雀、万野の紋壽が文字久をぐいぐい引っ張っていた感あり。また、文昇の女郎お鹿がイキイキしていて印象的でした。

こうして三業が各々の持ち場で、住大夫の代役・文字久を盛りたてようとするかのチームワークが見て取れた気もします。
十人斬りにおける、津駒大夫、寛治の床は盤石。特に寛治の太棹の冴えっぷりは、嬉しくさえ感じるものでした。



近くのコンビニでおにぎりをほおばって、時間つぶし&腹ごしらえ。外は猛烈な雷雨。よって、店内で立ち読みしながらしばしの雨宿り。
雨上がって、また劇場へ戻りますと、第三部開場前に早々に「満員御礼」の立て看板。
ロビーはあふれかえる人の熱気でムンムンしています。
ここしばらくの公演では、午後の部は大変寂しい客入りでしたが、さすが曾根崎。集客力抜群であります。

『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』
生玉社前の段
天満屋の段
天神の森の段

■初演 元禄16年(1703)、大坂竹本座
■復活初演 昭和33年(1955)1月、四ツ橋文楽座
■作者 近松門左衛門
*復活物脚色・作曲 野澤松之輔

泣くんですョ、最後に。
ただ、小生の場合は、ご婦人方がこぞって目頭にハンケチを当てるのとは理由が違います。
大体、この物語自体が、ちょっとダメっぽい徳兵衛クンのおかげでお初さんも死を選ぶことにという、不条理なお話であります。そんな徳兵衛クンには何の同情もできませんし、「おい、もっとうまいこと世の中渡っていけよ」と叱咤したいくらいです。これぢゃ、お初さんがただただ気の毒でなりません。「アホですか、徳兵衛は?」ってなもんです。
ところが、最後の道行の場面は、どうしても涙が滲んでくるんです。この涙は、死にゆく二人に同情しての涙ではないんです。ただただ、美しいのです、あの光景が。人形がそして人形遣いさんが…。ああいうのは、人間が演じてでけるもんやないですね。人形ならではの美しさですね。今回は、お初に簑助、徳兵衛に勘十郎。只今の文楽が誇る最強師弟タッグであります。美しくないはずがない。この場面を見るだけでも来た価値があります。
この日も、幕が引かれ、残像が頭にインプットされようとするまさにその時、ポロっと一筋、涙こぼれました。
あの「終わり数分から」グッとくる、文楽の演目は数々あれども、こういう感覚は曾根崎ならではですね。これが人気演目たるゆえんでしょうか。
床は、「生玉」が文字久と清馗。文字久は先ほどの『伊勢音頭』の「油屋」に続いて今日2度目。声もややかすれ気味なのが気になるが、こういうのを乗り越えてほしい。
「天満屋」に、源大夫、藤蔵。源大夫はまだ完全に癒えてはいないようで、まだまだ声が弱い。藤蔵はそこをなんとかカバーすべくとしたのかどうか、前半は抑えて抑えて、後半にグッと盛り上げ、静寂を突き破るかの力のこもった弾きようで、死を選んだお初、徳兵衛の思いの強さを表現。
「天神の森」では、お初の呂勢大夫の張りのある声が印象的。清治休演で清介が代演。そこは安心して聴ける。
そして幕が引かれて、拍手万雷の中、ポロっと涙…。歌舞伎ではなかなかこうはいかない…、少なくともアタシが見た限りでは。

この『曾根崎』を見て、大阪市役所勤務で夜ごとTwitterに現れる人は、色々と一夜漬けの難癖をつけてましたが、それが精一杯でしょう。分かって言ってるのかどうかも甚だ疑わしい限り。
もちろん、見たまま感じたままを色々言ってもいいと思います。このブログだってそういう意味では、大差ないと思います。
と言いながらも、市役所のTwitter担当の人のコメントに対しては、「でもねぇ、お前なぁ」ってのがあります。その「でもねぇ、お前なぁ」という声が今公演の大入りに多少はつながったとは思いますが、やっぱり作品の力が客を呼んだのは間違いないです。そこはやっぱり、舞台、見れば一目瞭然です。

さて、11月の今年最後の本公演は、『仮名手本忠臣蔵』です。今の文楽のすべてを結集させる大作中の大作です。ゆえに、芸人各々の負担も大きくなりますが、そこは力の見せ所。前述のように手薄な太夫陣には「これ、か?」という不安の声を撥ね退ける一層の奮闘を期待しますし、そうでなければなりません。色々とあった今年を最高の形で締めくくってほしいと願います。


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