【訃報】五代吉田文吾*旧ブログ

人形遣いの文吾さんが亡くなられた。
一言、「無念」である。

夏の盛りの、大阪日本橋「国立文楽劇場」楽屋。
2時間後に、同劇場夏の文楽公演レイトショー『摂州合邦ヶ辻』で合邦を遣う文吾師匠を訪ねた。
「そうか、そうか、香港からわざわざ…。今晩、観て行くんか?」
舞台ではスケールの大きな人形遣いっぷりが魅力の文吾師だが、そこにいたのは、気のええ、気さくな、陽気な、それでいて熱い、大阪のおっちゃん・吉田文吾がいた。

入門の経緯や、昭和30年代の文楽の様子、欧州公演の開催都市で名誉市民賞を贈られたこと、宇崎竜童との『ロック曽根崎心中』のこと、これからの文楽のあるべき姿など、汲めども尽きぬ文楽への熱き思いを聞かせてもらった。
開演前の舞台にも案内してもらった。客席から見えるのはほんの一部、その奥行きの深さに驚いた。
「ほないっぺん、人形持ってみ」
娘盛り(?)の人形は想像通りずしりと重い。3人遣いとは言え、これを長ければ1時間以上持って、3人が、いや、床(大夫、三味線)、そのほかの人形ともども、呼吸をぴったり合わせて遣う。文楽とは、かくも過酷な芸能なのかと、改めて認識した。
「ほな、続きは、また明日や」
翌日もまた、午前の部終了後に、劇場内の文楽茶寮で2時間近くお話しを聞くことができた。

それまでにも、文楽の方々とは何度か楽屋にお邪魔したりして、お話しを聞いたことがあったが、大方、口数の少ない方が多く、こんなにも色んな話しを聞かせてもらえるとは、思っていなかった。それだけにこちらも夢中で話しを聞き、いろいろと質問もし、文楽への要望や期待なども、忌憚なく話すことができた。大変貴重な意義ある2日間だった。
『ロック曽根崎心中』については、「なにせ(ロックのコラボは)初めてのことやから、そりゃ最初はいろいろ言う人おったけど、お客さんはみな喜んでくれはった。それで認めてもらえるようになった」。
文楽ファンの中では「次の人間国宝は文吾さんや」という人も多かった。「もうちょっと背ぇがあったらなぁ」と苦笑されていたが、一昨年春の『勧進帳』では、弁慶を遣い、「背ぇ」を感じさせない、ダイナミックな弁慶を披露。まさに文吾師の本領であった。
私が拝見した「最後」の舞台となったのは、一昨年秋の『心中天網島』での粉屋孫右衛門だった。

「香港には老人ホームちゅうようなもんはあるんか?」
「ええ、大抵は雑居ビルの中にあって、決して恵まれた環境とはいえませんけどね」
「香港で文楽でけるか?」
「大阪の人多いし、とにかく我々、日本の芸能に飢えてますから。。。」
「いやいや、老人ホーム行って、香港のお年寄りに文楽見せたげたら喜ぶかなと思て。。。」

このところ、病気休演が続いていたが、まさかこんなに早く天に召されるとは…。快癒された暁には、なんとか香港にお呼びして、あのダイナミックで骨太な人形遣いをご披露してもらいたかったのに。
早すぎますよ、文吾さん。無念やったでしょうな…。

文楽は、上方は、また、大きな柱を失った。


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