【返還10周年】思い出話(46)「尖閣」その6-反日の真相 *旧ブログ

本来であれば、我が国政府と中共政府或国民党政府との論争になるべき「尖閣問題」。ってか、問題ではない。盗人の得手勝手な言い分に「はあ、はあ、それで?」と一々耳を傾ける煩わしさ、そこんとこが問題なのだが。
それがどうしたことか、ここんちの方々は「かつては」尖閣と言えば異常な反応を示したのですよ。その強烈な日々が小生にとっては忘れがたく、「返還」を語るときにどうしても欠かせないのです。なぜなら、そこで初めて「香港人ってそうなんや~!」って確認できたわけですし。そんなこんなで”【返還10周年】 思い出話(46)「尖閣」その6-反日の真相”などという大げさなタイトルを掲げて、ひとまず「尖閣シリーズ」の最後としたいと思います。

1996年晩夏から初秋にかけての「尖閣どがちゃが」を振り返ってきましたが、あそこまで騒ぎが拡大した背景をつらつらと当時の状況などを思い出しながらまとめてみますね。
【1】メディアの扇動
これは、毎回のように書いてきましたが、騒動の拡大の最大の原因はメディアの扇動でしょう。なんと言っても最大の功労者は『明報』。ことのきっかけが『明報』の「釣魚台陥落?」というセンセーショナルな1面見出しだったんですから。後はもう、部数拡張と視聴率UPのため、デマ、捏造、歪曲、…。ありとあらゆる「卑怯な」手段で部数と視聴率を伸ばし、異論を徹底排除、少しでも異論を唱えようものなら、文革さながらの「吊るし上げ」。メディアが一斉に同じ方向を向いたときの怖さを思い知らされました。
【2】「ガス抜き」説に異議あり
当時、冷ややかに香港の反日を眺めていた日本のメディアですが、一応、さらっと「香港で反日デモ」 とかって感じで多少の報道はしていました。これまた揃いも揃って「返還前の不安定な市民感情の『ガス抜き』」という見解でしたが、これはおかしいんでない? と思いました。市民感情はまったくと言っていいほど「返還前の不安」などなく、落ち着いたものでした。同年代(60年代前半生まれ)の香港人たちは、「『返還』は決まったことなんでなんともないけど、衝撃的だったのは、やっぱり1984年12月19日の中英共同声明で返還が決まったとき」と言います。そりゃ天地がひっくり返る思いだったでしょう。そんな感じですから、デモや集会に集まった人たちが「ガス抜き」に何万人も集まったとは到底思えません。
では? 行き着くところは
【3】「全球唯一勇敢的中華民族」
香港人、と一言で言いますが実は「血統書付き」広東人なんてほんの数%かもわかりません。多くは、国共内戦や文革から逃れてきた「元・本土人」およびその子供、孫たちです。「中国」におれなくなって逃げてきたのに、こうした人たちほど「中国人」であることを強く意識します。
それは大変結構なことだと思うのですが、なにせ当時のここは英領。それこそ「ヴィラ・ロッチャ」とか「ラグナシティ」とかに住んで「アンディ」だの「ウェンディ」など名乗ってるわけで、じゃ、どうやって「中国人」たるべきか、となると手っ取り早いのが「反日」。
中共はODAに目がくらんで言うことは言うけど最後は刀を鞘に収めるし、台湾の国府はトップ(李登輝)が日本大好きだし、国共ともに日本に何もできない。尖閣なんてちっぽけな島ぐらい、ババーンと攻め込んでさっさと奪い返せばいいんだ! なんて思っちゃうわけです。「中台が何も言わない、しない腰抜け野郎どもなんだから、香港がやるしかない!」となるわけで。
そこで連中は「全球唯一勇敢的中華民族」なんて、いい気になっちゃって…。
【4】民主派
返還前で唯一不安を感じていたのは、やはり民主派でしょう。一貫して「平反六四」として天安門事件の責任追及をし、民主化を唱えてきたわけですから、当時は中共にとっては非常に厄介な存在だったわけです。そんな民主派が最後には、人民解放軍に武力行使を申し入れたり、尖閣に不法上陸し、日本国総領事館を占拠するなどテロ行為に走ったのでしょうか?
「反日」の予想以上の求心力に魅力を感じた
これは好都合です。根底に反日ありきの香港ですから、
・返還後も民心をひきつけるツールとして使えそうだ
・中共と認識を共有できる部分もあるぞ、ということを各方面に明示しておきたい

そして何よりも
・民主派自身が返還1年前の「不安」を吹き飛ばしたかった!そうだ、「全球唯一勇敢的中華民族」って叫ぼう!
要するに「ガス抜き」したかったのは、民主派ではなかったんだろうか?と思うわけです。
以前から何度も指摘していますが、奴らとてシナ人。「全球唯一勇敢的中華民族」って叫んで「愛国者」になればそりゃ気分も晴れ晴れするでしょう。
それがエスカレートして、解放軍への派兵要求、領海侵犯・不法上陸、領事館占拠などの暴挙になってゆく…。
結局、「全球唯一勇敢的中華民族」「愛国者」などのフレーズに酔いしれていたのは民主派だった、ということでしょう。
「打倒日本軍国主義!」「日本の右傾化を警戒せよ!」などと言いますが、自分たちが一番「右傾化」していることをすっかり忘れて舞い上がっている姿は、実に哀れなものです。

日本人が思い浮かべる「民主」と香港民主派の「民主」に隔たりを感じるとともに、ほんとうにこいつらを「民主派」と呼ぶべきか?との疑問はいまだ解消できません。
民主派というよりは「かなりガチな民族主義者集団」というのが当時の民主派の印象です。また一方で、返還を1年後に控えながらも自分たちは英国の庇護の下、まだまだ自由を謳歌できている気楽さもうかがわれます。「中台が何も言わない、しない腰抜け野郎どもなんだから、香港がやるしかない!」なんて、ある意味、本土や台湾の人間にしたら大きなお世話だし、「お前ら、植民地で勝手に気楽なこと言えて、そりゃお気楽なことで! フンッ!」てなとこでしょう。
市民も議員も「国家」というものを知らない時代ならではの「尖閣騒動」だったと思います。
~お付き合い、ありがとうございました。1996尖閣騒動回顧、これにてトメ//
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COMMENT:
AUTHOR: 丸山光三
DATE: 06/22/2007 22:02:28
ううむ、現地におられるだけあって鋭い分析でした。「シナという病」の根深さを思い知らされます。「中華」あるかぎり反日は終わらない、というのがわたしの感想です。
万一、シナ大陸が民主化されても、彼らにシナ・イデオロギーあるかぎりは反日が止むことはないでしょう。華夷秩序意識がシナにあるかぎり(シナがシナである限り永遠にあるでしょう)、そして日本のシナにたいする政治・経済・文化的上位が継続する限り反日は止まない、という結論でしょうか。(華夷秩序を受け入れた半島も同様ですね。)
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COMMENT:
AUTHOR: leslieyoshi
DATE: 06/23/2007 00:32:35
To マルコおいちゃんさん
「反日ではなく『侮日』」とよく言われていますが、まさにそうだと思います。
日本が大好きで、年に何回も旅行して、我々よりもメシのウマイ店をいっぱい知ってるようなヤツでもポロッと「日本仔(やっぷんじゃい)」なんて口が滑ってしまう…。
華夷秩序が大前提の「民主化」。それを民主とは呼べないです。


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